西に傾いた日を見上げ思う。明るいうちに、日が差しているうちに、やっておかなければならないこと。は、身辺生前整理。夜が来る前に。・・およそ1年前まで夢中になって片づけをしていた。「身辺生前整理宣言(こちら)」までしてある程度片づけた。そこで止まってしまった。ある程度片してある程度残して、中途半端に終いにしてしまった。身辺を見やれば迷った挙句に残したものが多くある。これは思い出の品、これは大切なもの、これは何かの記念、など選り分け、あーでもないこーでもないと迷い考えた挙句、迷ったものは大部分がそのままに残された。今時計の針は午後2時を回ったところ。傾いてきたとはいえ、日に照らされている今このときに、この後に確実にやってくる夜の支度を急がなくてはならない。夕暮れになれば視界が狭まり作業はし辛くなるだろう。夜になったら何も見えなくなってしまうだろう。だからこそ今、急いてことを進めなければならぬ。
とっぷりと日が暮れても微かな灯はのこっているやもしれぬ、がそれは消えゆく灯だ。あるときふっと消える。ろうそくが燃え尽きるようにふっと消える。消えたら最後だ。すべてが終わる。暗黒の闇が訪れる。すべてが止まる。止まったら何もできなくなってしまう。永遠の眠り。だからこそ今のうちにやっておかなければならぬ。眠りにつく者としての身辺整理。
人間はモータルな存在だ。死ぬる者である。人は死ぬるとき持てるものは何もない。たとへ死後の世界があったとしても、その世界に今の世の持ち物を持って行くすべは皆無である。この真理によれば、眠るときまで身辺に残し携えるべきものは生きるわが身の保全に必要なもののみで、保全に必要でないもので、かつ他者において無用のものは粗方処分すべきでなのである。つまり、わたしにとってのみ思い出の品や、私にとってのみ貴重なもの、私にとってのみ何かの記念、などは私がいなくなった後に残された者たちからするとまったく無用の遺留品に過ぎないのであり、そしてそれらは私が携えて死後の世界にもってゆくこともできないのであるから、生前に処分すべき品ということになる。そこを基準にして身辺生前整理は行わなければならない。
私はあと5年は生きたいと思った(こちら)。その5年の1年を1時間とすると、ひと月は5分。私の残り5年の人生時計の針は刻々と止まることなく刻まれる。かように考えると私に残された時間は僅かで、惜しむように1分1秒を使わなければならぬと痛感する。日が差しているうちに私はやらねばならぬことをやってしまわなければならぬ。
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近況備忘録。
・正月の行事は予定(こちら)した通り過ぎた。
大晦日妻娘と食べに行った蕎麦屋は私的には今一だった。そば自体はまあまあの部類だったが、レンゲがついていなかったのとビールにつまみがつかなかった。なーんだそんなことと言われそうだけど。私的には重要なポイント。
元旦はスケジュール通り。弟夫婦と甥っ子と妻と娘で6人で会食。楽しかった。このメンバーでロッテのホーム開幕戦を見に行こうということになった(娘除く)。とてもとても楽しみな予定ができた。
2日は2年ぶりに訪れた妻の実家。時節柄を考えて墓参りとご挨拶程度と妻の生家にあらかじめ連絡しておいたのだけれど、寿司や料理を用意してくださっていて結局ごちそうになってしまった。やっぱりいなかじゃ持て成しもせずに帰すわけにもいかないだろうなと。またこちらとしてもまさか本当に挨拶程度で持て成しを断ってそそくさと帰ってしまったとしたらそれは大変失礼なこととなってしまったことだろう。妻の両親は老いは見えるがそれは年相応で息災でいらっしゃった。それが何よりです。
3日は長男夫婦と孫が遊びに来た。孫は6ヵ月の女の子。まだ心は許してくれないけれど、かわいいことこの上ない。お年玉として買っておいたガシャガシャするおもちゃをあげた。気に入ってくれた模様で安堵した。家族全員で写真を撮った。いい記念になった。
その夜、娘は夜行バスで姫路に発った。怪我無く元気にできれば活躍できるように願うばかりである。
4日から仕事。仕事始めの昼に歯の詰め物がとれちゃうというアクシデント。急遽初日から早退させていただき歯医者で治療。(→12日新しい詰め物ができて埋め治癒。)
とまあ、そんなこんなです。