TwilightSmile

 ~ 定年 another story ~

八丈島リサーチ①「無人島開拓の偉人」玉置半右衛門①

八丈島。島の大きさ・位置などは前回記事で見ました(こちら)。現在日程を組んで今月末のヘリの予約を待って具体化するところまで準備は進みました。

来月八丈島を旅することにしたのは、南北大東島での旅で八丈島に関心を持ったから(こちら)です。予約を待つ間、しばらく島のリサーチに費やすことにします。無職の特権を生かして。笑

何故八丈島の人たちが大東島を開拓したのか。

これが今回の旅のテーマの一つです。
八丈島と大東島は1150kmも離れています(こちら)。沖縄ー大東島間の360kmより3倍以上離れているのです。それなのに八丈島の人たちが126年前上陸し南北大東島を開拓した。その理由を知るために、まず島の開拓者、八丈島出身の玉置半右衛門という偉人について調べようと思います。

なお、玉置半右衛門は明治時代の日本の無人島開拓史において、絶海に浮かぶ鳥島や大東諸島へ命がけで入植し、「孤島」を近代産業の拠点へと変貌させた近代の名士ですが、一方でアホウドリの捕獲により巨万の富を得たという側面ばかりが強調され、一面的な見解から否定的に評価する風潮も一部にあるようです。

功罪の評価は私がどうこう言う立場にありませんが、彼のフロンティア精神がこの八丈島から始まったと思うと、歴史のロマンを感じます。

そのためここでは、「無人島開拓の偉人」としての側面から追ってみたいと思います。


【玉置半右衛門略歴】
玉置半右衛門の生没は天保9年(1838)10月1日伊豆八丈島大賀郷村に生まれ、明治43年(1910)11月1日、肺臓麻痺により自邸にて逝去(享年73)(※1)。

彼の足跡を時系列で見てみると、驚くべき事実が見えてきます。
50歳(1887年):鳥島開拓に着手
63歳(1900年):大東島の開拓に着手
69歳(1906年):ラサ島(沖大東島)の開発開始
73歳(1910年):逝去
つまり、彼が本格的な離島開発を行ったのは50歳からの僅か23年間のこと。さらに、あの大東島を開拓し始めてからはたったの10年で生涯を閉じた、ということになります。

50代・60代になってから、鳥島や大東諸島といった「当時誰も手をつけられなかった絶海の孤島」へ次々と挑み、日本の領域拡大と産業興隆に生涯を捧げたその超人的なエネルギー。八丈島の風土が、これほどまでに強靭な開拓者を育んだのかと思うと、改めてそのフロンティア精神の凄まじさに圧倒されます。

・・

では、50歳になるまでの玉置半右衛門の半生はどう生きてきたのか。

過去の資料を紐解いてゆくと、伝聞や伝記的なものもあって史実かどうか迷うところもありますが、いくつかの出典で裏付けながら半生を見てゆこうと思います。

【半右衛門の生い立ちと時代背景】

玉置半右衛門が生まれた天保年間には全国的な凶作による物価高騰や天保の大飢饉、百姓一揆がおこっており、老中水野忠邦による天保の改革が進められるも失敗し幕府への信頼が低下していく時代です。

当時の八丈島は江戸幕府直轄の流刑地であって「鳥も通わぬ島」でした。過酷な飢饉(※2)にたびたび襲われ、慢性的な飢饉の際に口減らしのために高齢者を残したとされる「人捨穴」まで存在します。半右衛門はこうした時代背景に生まれました。

半右衛門の家系は、紀伊(現在の和歌山県)から赴任した代官を先祖に持つ、島内の名家で彼はその13世の孫といわれています(※3)。別の資料(※1)にも「伊豆八丈島の代官の家に生まる」とあることから、彼が歴史ある家系に生まれたことは確かなようですが、半右衛門の代の玉置家は公職ではなく半漁半農で生計をたてていたようです(※4)。

半右衛門が大賀郷のどこに生まれたか、生家は近年まで不明でした(※5)。(これは半右衛門が自由民権運動に参画し失敗、島を追われた結果、彼の公式記録が消されたためですが、この件は後述します。)

【青少年期の半右衛門】

明治維新前の八丈島には公的な学校はありませんでした(※3)が、半右衛門の生まれた大賀郷は島役所が近く島の中心地であったことから、流刑となった多くの知識人(流人)が暮らし、島民に文化や学問を伝える土壌がありました。

12-3歳のころ半右衛門は八丈島に島流し(流刑)にされていた大工の棟梁・石山留五郎に弟子入りし、大工の修行を始めました(※6)。この流人の職人から仕込まれた確かな大工技術が、彼の人生のすべての基礎となります。12-3歳というと現代では小学校卒業する年頃でまだまだ子どもです。一方、石山留五郎は流刑から6年目の42-3歳。大工職人としての地位を確立し精力的に活動していた時期。まだ少年期の半右衛門を小間使いにしている留五郎の絵が目に浮かびます。

そればかりか、半右衛門はまた12-3歳のころより牧畜に従事し牛を飼養し、他方に漁業を事としました。八丈島の周囲の海は「沿海潮流急にして、操舟に不便であつたにも拘らず、其間を漕ぎ廻り、鱸(スズキ)捕りの名人(※4 )」と称されるほどであったといいます。

半右衛門は生涯「眼に一丁字のない人」(文字を一つも読み書きできない文盲)(※7)でしたが、文字が読めないハンディを補うためか、彼は文字の勉強ではなく「体と手先で覚える技術」つまり、大工・牧畜・漁業・操舟の技術を少年期より収め、そして「教科書的な読み書きが全くできないまま、世界を相手に貿易をし、絶海の孤島をいくつも開拓した」傑出した人物に成長してゆくのです。

16歳になると半右衛門は父から3頭の牛を貰い家から独立することとなりました(※8)。現代でいえば16歳は中学卒業したてのまだ子どもの域をでたばかりですが、江戸時代では完全に子どもを卒業した一人前の労働者・社会人です。彼は3頭の牛を引いて山に分け入り日毎薪を取って来たそうです。そしてその薪を売り白布を買いそれをまた売りと売買に励み、19歳の時には資財が増えて40餘金に達したといいます(※3)。

19歳にして40餘金。江戸時代末期の価値基準である「金40両あまり」のことで、現代の価値に換算するとおよそ400万〜600万円前後に相当します(※9)10代の若者が3年間で自力で蓄えた金額としてはかなりの大金。半右衛門没後の記事にはこのエピソードを以て「商才に長け利殖に巧みで将来貿易家たるべき資格はこの時すでにその片影を現わしていた(※10)」と評されています。

・・

【半右衛門の転機】

時代は文久年間(1861年〜1864年)。
幕末の動乱期にあたり、ここ八丈島は日本国家において非常に重要な役割を果たしてゆくことになります。具体的には、1861年(文久元)に江戸幕府が小笠原諸島を「日本領」であることを国際的に宣言。その開拓を進めるための実効支配の担い手として、八丈島の住民を現地へ移住・入植させるという、日本の領土の歴史における重大な転換点を迎えます。
当時の小笠原は、1830年から欧米人5人とハワイ原住民など20数人が移住して暮らしており、日本人は一人も住んでいませんでした。日本としては、日本人の居住によって実効支配を確実にし、国際社会へ領有権を主張する必要があったのです。
日本の国境線が大きく動くこの大プロジェクトに、若き日の半右衛門も深く巻き込まれていくことになるのです。

翌1862年。伊豆諸島を管轄する代官・江川太郎左衛門の部下が八丈島へと赴き、島民たちに小笠原への移住を促す説明を行いました。当時の募集内容(口上書の大意)を記録から見てみると、かなり具体的な条件が並んでいました。

~幕府による小笠原移住の募集要領(大意)~

  • 「このたび小笠原を幕府の手で開拓することになった。その第一陣として、八丈島から人々を移住させるようお達しが出た。そこで、男性15人、女性15人の計30名(いずれも夫婦の形)で小笠原島へ移住する者を人選して名乗り出させてほしい。」
  • 「また、現地での建設作業のために、大工、左官、鍛冶などの技術を心得ている者を10名ほど職人として連れて行くので、人柄の良い者を選んで申し出なさい」(※12より引用、現代文訳)

国領の島をゼロから切り拓くため、夫婦での定住者と、家を建てるための職人たちを集めるという、まさに「ガチの開拓団」の募集だったことがわかります。
時に半右衛門25歳(※13)。運命の転機。「無人島開拓の偉人」の第一歩を印す時がきました

勧誘の結果、選ばれたのは男15人・女15人の計30人の移住者と、8人の職人たち(大工5、船大工1、木挽1、鍛冶1)でした(※12)。そしてこの大工5人のうちの1人こそが、若き日の玉置半右衛門その人だったのです。12〜13歳から修行を始めて12年。この時、半右衛門は立派な大工技術者へと成長を遂げていました。

半右衛門はこの募集に、自ら積極的に応募しました。当時の小笠原は、「流刑の島」として知られた「鳥も通わぬ八丈島」よりも、はるか遠い天地の果て。親戚や友人たちは「誰が好んでそんな場所へ行き、命がけで開拓するのだ」と、こぞって彼を引き止めたそうです。

しかし、彼の志はすでに常人とは違っていました。「今こそ国家の利益、国益を重んじるべきだ」と熱く懇切丁寧に周囲を説得して同意を取り付けると、それまでに稼いだ資産をすべて隣村の商人某氏に預け、文字通り「身一つ」で幕府の船へと乗り込んだと言います(※3)。

・・

【運命の出合い】

小笠原に到着すると、半右衛門は高い志を胸に、精力的に仕事へと当たりました。持ち前の大工技術を活かして開拓仲間を鼓舞し、力を合わせて、またたく間に数棟の官舎や民家を建ててみせたのです。その功績は、吏員から報奨を与えられるほど目覚ましいものでした(※3)。

そしてこの小笠原の地で、半右衛門のその後の人生を大きく変える「二人の偉人」との運命の出合い(邂逅)を果たすことになります。その人物とは、

  • 「国領を守った小笠原開拓の父」:小花作之助(小花作助)巻末に人物略歴
  • 「漂流から世界を知る奇跡の外交官」:中浜万次郎(ジョン万次郎)

という教科書級の超大物たち。この交わりはまさに玉置半右衛門の人生が、日本史の大きなうねりと完全にシンクロした瞬間でした。

小花作之助は、小笠原に対する幕府の領有権を「実効支配」へと変えるため、現地責任者である「島留守居役(しまるすいやく)」に就任。
幕府の役人10人程度、そして八丈島からの開拓民38名というわずかな手勢を率いて、農業や道路の開削、住居の建設を指揮し、南洋の孤島での過酷な開拓と統治を行いました。

この困難を極める開拓現場で、誰よりも身を挺して任務に従事したのが半右衛門でした。小花はそんな半右衛門に深い信頼を寄せ、彼を重用するようになります(※14)。半右衛門もまた、この信頼に激しく感激し、ますます熱心に任務へと励みました。

当時、小花は33歳。半右衛門は25歳。まさに気鋭の中堅官吏と、働き盛りの若手大工。絶海の孤島という極限の環境で生まれたこの強い絆は、時代が幕府から「明治の世」へと激変した後も、長く続いていくことになるのです。

【中浜万次郎との邂逅】

一方、もう一人の偉人である中浜万次郎は、言わずと知れた立志伝中の人物。万次郎は文久3年(1863年)1月、日本初のアメリカ式捕鯨を実践するために小笠原へとやってきました(※15)。島に到着した万次郎は、船に積んできた木材を使って、さっそく捕鯨用のボート(端艇)2隻の製造に着手します(※16)。その際、万次郎は島の職人たちへこのように依頼しました。

「近海の鯨を漁獲したいが、船や道具が足りない。職人の力を借りて作製することはできないだろうか」(※17)

当時、島にいた職人はわずか8人。現地責任者である小花作之助から最も厚い信頼を得ていた半右衛門が、その中心として製造の任にあたったと考えられます。もともと半右衛門は、故郷の八丈島で「操舟の達人」「鱸(スズキ)捕りの名人」と謳われるほど、漁業や船の操縦技術に長けた男でした。だからこそ、万次郎が求める高度な造船の注文も、誰より的確に理解できたことでしょう。ボートの製作は極めて順調に進み、3月初旬には見事に完成したといいます(※16)。

中浜万次郎はこの時36歳。半右衛門は26歳。世界を知り尽くした偉大な先駆者と、未知なる可能性を秘めた若き原石。絶海の地で、その二つが奇跡の邂逅を果たした瞬間でした

・・

ここからは歴史のロマンが膨らむ想像ですが、この濃密な2ヶ月の間に、半右衛門はジョン万次郎から数多くの未知の世界を学んだはずです。もとはといえば万次郎も土佐の貧しい漁師の生まれ。話も合ったと思います。異国の生活、捕鯨の技術、アメリカ流の造船術、世界の広さ、そして諸外国と日本の立ち位置――。何より大きかったのは、万次郎が少年時代に143日間もの極限のサバイバルを生き延びた、絶海の無人島「鳥島」の記憶についてです(※18)。

当時、文字の読み書きが全くできなかった(文盲だった)という半右衛門。しかし彼は、世界を見てきた男たちから「見聞きしたこと」のすべてを凄まじい吸収力で自分の肉体へと刻み込み、新時代の幕開け(明治維新)へと突き進んでいくことになるのです。

故 玉置半右衛門
故 玉置半右衛門氏(※1より転載)


   続きは

《八丈島リサーチ②「無人島開拓の偉人」玉置半右衛門②
「わずか9ヶ月で強制撤収した小笠原最初の開拓者30人の顛末記」につづく➡こちら

にほんブログ村【 定年後の暮らし】  シニアブログランキング

 


【文中出典】

(※1 出典:矢部信太郎 編『近代名士之面影 第1集』大正3年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※2 出典:東京都出版『江戸時代の八丈島 : 孤島苦の究明  (都史紀要 ; 12)』177P 1964年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※3 出典:廣田三郎 著『実業人傑伝 第5巻第2編』明治28-31年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※4 出典:雄山閣 編『類聚伝記大日本史 第十二卷』186P 昭和11年、 国立国会図書館デジタルコレクション  ㊟一次資料未詳。伝記・評伝のため編者の主観や評価は入るが、ベースにあるのは「実際に起きた事実」として評価できると考え引用した。)

(※5 出典:東京都八丈町教育委員会発行『わたしたちの八丈島』117P 令和7年改訂12版、こちらPDF

(※6 出典:葛西重雄 著『八丈島青ケ島碑文墓誌集成』97P 1990年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟一次資料未詳。「石山留五郎に弟子入り」は時代背景から推察したフィクションの可能性もあり。ただし半右衛門が大賀郷の中心部に生まれ育ったことから大工技術を学ぶに留五郎と交わった可能性は高いため、当ブログも一次資料未詳のままエピソードとして取り上げた。「父から3頭の牛を貰い家から独立」はいくつかの伝記にも書かれている。)

(※7 出典:江崎竜雄 編『大東島誌』序 昭和4年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※8 出典:実業之世界社『実業の世界 7(23);十二月一日號』記事32P 1910年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟現在も実在する経済誌『週刊ダイヤモンド』や、実業之日本社のルーツ。ノンフィクションのメディア。雑誌特有のやや誇張・美化あり。筆者も千山九江筆と匿名である。歴史的事実としての信憑性は非常に高いが、ジャーナリズムとしての描写には誇張や主観が含まれていると理解したい。)

(※9 参考:日本経済新聞社、野村ホールディングス『man@bow』お金の歴史雑学コラム、こちら

(※10 出典:海外之日本社出版『海外之日本 1(1)』57P 1911年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟「海外之日本社」は1911年に創刊され1942年まで活動していた出版社。グローバル・地政学的な視点を持ったノンフィクション誌。記事は玉置半右衛門没年1910年の翌年書かれたものであるので親族や生前の関係者、あるいは会社の公式記録から直接情報を得て書かれている可能性が極めて高いが、追悼記事特有の美化・物語化されている面もあると推察する。)

(※11 出典:小笠原村HP『沿革』こちら

(※12 出典:永久保満 著『趣味の東京府八丈島誌』99P100P 昭12年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟移住者30人は男15名・女15名の夫婦。他資料より、うち純粋な夫婦は11組で残りの4組はそれぞれ5歳から14.5歳の子どもの許婚関係(めあわせ(嫁入り)する)であった。また夫婦といっても妻が13歳という関係もあり(詳細別記事こちら)。資料 坂田諸遠 編纂「小笠原島紀事 31巻首1巻 巻之12」〔明治年間〕、 国立国会図書館デジタルコレクション こちらに半右衛門28歳と記載も有)

(※13 ㊟いくつかの資料によっては半右衛門19歳の時小笠原開拓へ入植と書かれているが、当ブログでは生年と文久2年小笠原開拓という歴史事実に合わせ25歳とした。他28歳とした資料(※12など)もいくつか見かけた。)

(※14 出典:日本現今人名辞典発行所『日本現今人名辞典』「たまおきはんえもん」の項、明治33年、 国立国会図書館デジタルコレクション を参考に他出典資料を考慮しつつ文章化)

(※15 出典:文倉平次郎 著『幕末軍艦咸臨丸』326P 昭13年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※16 出典:中浜東一郎 著『中浜万次郎伝』342P 昭11年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※17 出典:広田三郎 著『実業人傑伝 第5巻』二ノ九P 明28-31年を現代語訳、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※18 出典:南大東村誌編集委員会 編『南大東村誌 改訂』92P 1990年、 国立国会図書館デジタルコレクション  ㊟鳥島の話を万次郎から聞いたというエピソードは南大東島誌に拠る)


【巻末注釈:小笠原で出会った二人の偉人・略歴】
小花作之助(おばな さくのすけ ※のちに作助に改名)小笠原諸島の領有権確立と開拓のため、外国奉行・水野忠徳の一行として咸臨丸で現地へ渡った人物(当時は外国奉行支配定役元締助)。現地の本格的な地誌調査や地図作成を行い、水野の帰府後も島に残留。八丈島からの移民とともに島の管理と開拓を主導した。明治維新後も新政府の官吏となり、「小笠原の再開拓」を求める建白書を何度も提出して島への熱い執念を燃やし続けた。のちに初代「内務省小笠原島出張所長」(現在の支庁長や村長に相当)に任命され、現地での本格的な統治を実現した偉人である。
中浜万次郎(ジョン万次郎)土佐国(高知県)の貧しい漁師の家に生まれ、14歳の時に嵐に遭い、仲間と共に絶海の無人島「鳥島」へ漂流。143日間の過酷なサバイバル生活の後、米国の捕鯨船に救助されて渡米。現地で英語、数学、測量、航海術などを最先端の学問を広く修めた。帰国後は日米和親条約の締結に協力するなど、幕府や新政府の外交に尽力。小笠原開拓では小花作之助らのもとで日本人への開拓指導を行い、近海での捕鯨などを実践して島の産業基盤の礎を築いた。晩年は開成学校(現在の東京大学)の教授などを務め、教育に貢献した。