東日本大震災から10年。その記憶は微かに失われつつあります。10年という節目の年に新たに記憶に刻み込んでおきたいと思い、5/1日~3日の3日間の予定で宮城岩手方面の被災地を訪れました。
折しも「まん延防止等重点措置」が適用され、「不要不急の都道府県間の移動の自粛」との要請をされている中で、こうした行動を批判的に思われる方もいるかもしれません。しかし、私にとっては今この時期(とき)の行動が必要であり、かつ、都道府県間の移動という枠組み自体に疑問を持っている者でもあります。感染予防は個々人における対策が重要であって、都道府県という境に線引きして行動自粛を求めるのは無意味、と考えているのです。
ということで。
私は人との接触を避け、延々とマイカーで被災地を回りました。
(以下写真付き記事)
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2021年5月1日。初日は仙台まで移動。
グーグルマップでは車で約4時間半。
妻と代わる代わる休み休み運転して6時間弱かけて行きました。
10時半過ぎに地震がありました。。仙台市内で観測された最大震度は5弱とのことでした。ちょうど常磐道を走っていたところで車の揺れはほとんどなかったのですが、右手を見ると太平洋が間近に迫っています。津波の恐怖をもろに感じながらの運転になりました。
仙台市内に入ると普通の日常風景が広がっていたのでホッとしました。
今日は楽天パーク宮城でロッテ×楽天戦を観戦。
明日明後日被災地を巡ります。
コロナの影響で入場者数の制限がなされておりガラガラです。GWなのに・・。
(ちなみに仙台市はまん延防止地域に指定されていますが、楽天パーク宮城では普通にビールが売ってました。感染防止対策は徹底されており、こうした対応のもとでならばビールも売っても全然問題ないでしょう。1万人に入場制限しているマリンスタジアムもこうあるべきと考えます。)
試合は3-0で負けてぜんぜん面白くなかったですけれど。(-_-;)
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夕食は利久で牛タン。定番です。
牛タンとろろ定食。(妻はミニ牛タンシチュー)
(こちらでもビールが飲めました。もちろん感染対策はバッチリされています。そして酒類のオーダーは時間で制限されています。お店の方のご苦労がそこかしこに伺えます。こうした状況でのアルコールの提供はまったく問題ないと思えます。酒類のみ悪とする自治体のコロナ対策は納得いきません。)
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2021年5月2日。被災地訪問の旅2日目。
今日は仙台から大船渡まで三陸海岸沿いの被災地を巡ります。
まずホテルから一路女川へ向かいます。
道の駅おながわ。三陸自動車道経由で仙台から一時間ちょっとでした。
震災遺構・旧女川交番。
津波の渦中の引き潮で基礎もろとも引きずり倒された。
鉄筋コンクリート造の建物が津波で倒されるのは日本では初めてのことらしい。
津波の恐ろしさ。
一気に10年前の恐怖を肌で感じる。
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北上し石巻市大川小学校へ。女川から30~40分。
震災遺構・大川小学校。(施設HP→こちら)
津波により小学校の児童・教職員84名、地区全体で418名の方々が犠牲となった。
言葉なく手を合わせる。
あの斜面を登っていれば・・。
咄嗟の判断が命を左右する。
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さらに北上し、南三陸町へ。
震災遺構 ブライダルパレス高野会館。(施設詳細→こちら)
3階部分まで津波がすっぽりと到達している。
この会館は避難した約330人の命を救ったという。
会館の周りはすでに嵩上げされていて、窪みにポツンと建っている。民間企業による民間の伝承施設とのことで見るからに維持費が大変そうだ。なんとか後世に残しておきたいが・・。
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さてお昼を食べましょう。
と、高野会館からすぐの南三陸さんさん商店街へ。
コロナ禍ですが結構な賑わいです。
新鮮な魚介類を食べたかったんですが、混んでて断念。
比較的すいていたお蕎麦屋さんで軽く昼食と相成りました。
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昼食後。
南三陸町震災復興祈念公園へ。(観光協会HP→こちら)
旧防災対策庁舎。
祈りの場所とさんさん商店街を繋ぐ「中橋」。
南三陸杉をふんだんに利用したウッドデッキの太鼓橋とのこと。
完成したばかりなのか真新しかった。
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さらに北上し気仙沼市に向かいます。
車を走らせているとたびたび注意喚起する表示板。
ここから過去の津波浸水区間。
今は平穏だけど、一たび地震が起きると・・。
しぜん握るハンドルに力が入る。
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気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館。(施設HP→こちら)
気仙沼向洋高等学校の被災建物ををそのまま遺構として残している施設です。
MAP。施設HPより転載。
順路に従い校舎内に入ります。
目を覆いたくなるような光景。
非現実な様相、しかし現実にここは津波に襲われた。
言葉を失います。
どんなに怖かったでしょう。ここは3階です。3階に車。
屋上に上ります。
あの穏やかな海が津波となってここまで押し寄せたとは・・。
屋内運動場の屋根が消失した。
1階に降り表に出ます。
壊された校舎。
折り重なった車。
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津波の力に圧倒されながら、気仙沼市を後にし陸前高田市へと向かいます。
陸前高田市の震災遺構位置図。(陸前高田市HP(こちら)より転載)
気仙中学校。
屋上に達する14・2mもの津波に襲われた。
教室内や校舎のバルコニーには震災当時から手つかずのがれきが残されている。
現在は立ち入り禁止であるがいずれ公開されるらしい。
気仙中より対岸の奇跡の一本松を望む。
隣は陸前高田ユースホステルの遺構。
右手に小高い山のように見える部分は完成した防潮堤。
高田松原津波復興祈念公園。
防潮堤の先の海。
雨でもの悲しげさが募る。
犠牲になった人々を思い手を合わせる。
高さ12メートル、全長2キロの巨大な防潮堤。
数十~百数十年に一度の11・5メートルクラスの津波に耐えるという。
事業費は約300億円。
震災前は、約2キロにわたり高さ5・5メートルの防潮堤があったが、津波で全壊し、市役所など中心市街地が壊滅状態となった。
先ほど立ち寄った気仙中学校方面。
松原再生への取り組みが始められていた。
降りしきる雨の中、一本松へと歩きます。
・・・・・。
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夕も迫ってきました。
ホテルへ向かいます。本日のお宿は大船渡。ここから20分ほど。
夕食はこちらのお店で。のみくい処 汐谷。
焼き鳥丼定食をいただきました。リーズナブルな価格で、かつ美味しかった。
大船渡の防潮堤。夜の港にずっしりと立っていました。
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2021年5月3日。被災地訪問の旅3日目。
今日は大船渡の津波伝承館で語り部さんのお話を伺います。このお話を聞くことが今回の旅の一番の目的でした。事前予約制で予約したのが3月16日。TV等で3.11の特集が大きく報じられていたころでした。
このメールを送ってくださった主こそ、「地震だ! 津波だ! さぁ逃げろ!!」の齊藤さんご当人でありました。
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ホテルで朝食を済ませたあと、津波伝承館へ。(大船渡津波伝承館HP→こちら)
東日本大震災から10年の節目。思い起こそうとネットでいろいろ見ました。ほんとうにたくさんの動画がアップロードされていました。そんななかで私の目に津波の恐ろしさを一番に焼き付けたのがこの動画です。
www.youtube.com
「逃げろっ、逃げろっ、津波、くる、津波来るから逃げなさいっ」
こう言いながら社員をいち早く非難させた、この動画の声の主は、津波の伝承活動を続ける「大船渡津波伝承館」齊藤賢治館長。2011年震災当時は「かもめの卵」で有名なさいとう製菓の専務さん。
震災後しばらく、がれきの山や廃虚が残っていた大船渡市も、今ではビジネスホテルや大型スーパーが建ち、着実に復興はすすんでいるらしい。反面、津波の記憶は薄れつつあり、昨年からのコロナ禍が風化に拍車をかけているという。
「大船渡津波伝承館は、JR大船渡駅前の「大船渡市防災観光交流センター(おおふなぽーと)」の2階にある多目的室のほか、展示室、会議室などの部屋を使用し、先着順で予約して津波伝承の話を実施」しているとのこと。(伝承館HPより抜粋)
私は、ぜひこの動画のご本人から伝承のお話を聞きたい。そして私の中でも風化してゆく地震の記憶を呼び覚まし、決して忘れないものとしたい。そう願って、このコロナ禍のなかで県をまたいで移動するのはどうかと悩みながらも、伝承館の予約をしたのでした。
「大船渡市防災観光交流センター(おおふなぽーと)」の位置↑。津波で完全に破壊されてしまったJR大船渡駅前に復興のまちづくりの一環として作られた施設です。
震災前までJR大船渡線で盛と気仙沼に繋がっていた鉄道は、今鉄道ではなくバス(Bus Rapid Transit:BRT)となった。
復興して整然としたバス駅だが、見ているとなんとも切ない感傷に包まれてしまう。
さて時間です。手前の会議室に既に齊藤館長がお見えになっているようです。
ご挨拶してお話を拝聴しましょう。
コロナ禍なのでお話を伺うのは私たち夫婦だけかと思いましたが、ご家族連れの方が一組来場されていました。齊藤館長はとても優しい笑顔で私たちを迎えてくれました。人のよさそうな屈託のないお人柄が伝わってきます。そして、映像の中で聞こえた声のまま、体験談のお話は始まりました。
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約一時間くらいだったでしょうか、津波襲来時の映像や津波前後の写真や資料をもとに、 避難の様子、自分が助かった理由、など被災経験のお話を直接拝聴しました。とても貴重な体験談。心の芯まで響きました。地震、津波、逃げろ。地震、津波、逃げろ。地震、津波、逃げろ。頭の中に刻みこみました。
日に日に薄れてゆく防災意識。されど自然災害はいつどこで起こるか分かりません。いや、いつどこで起こってもおかしくありません。今この時も大地震は起こり得る。常に緊張感をもって備えをしておこう、心も物も。そう思います。そう思いました。齊藤館長、ありがとうございました。
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お話を伺った後、私と妻は映像の中にあった津波の実際の現場を訪ねました。
⑪の津波襲来映像撮影地。
眼下に民家はなく、整備された道路が走っています。変わり果てた町。けれどこれが復興の証。

⑨の北裳付近。高台に逃げろ、の標柱。
信号機のすぐ横に津波の高さが表示されている。手の届かない高さ。信じられないが、現実にここに津波が襲った。恐怖しかない。
⑦津波到達の碑。須崎川上流の加茂神社への参道付近にある。
震災直後ここはがれきの山だった。
⑥大船渡加茂神社。
震災時、多くの人がこの神社に昇り難を逃れた。
加茂神社から街並みを見る。何もない空き地がいまだ目に映る。
この急な階段が命を分けた。
www.youtube.com
階段中腹の青色表示部分が津波到達の高さ。
津波の恐ろしさを肌で感じました。
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ずいぶんと歩きました。昼食をとりましょう。
③キャッセン大船渡。復興した商店街です。<HP→こちら>
鮨・季節料理 ささきさん。やっぱ地魚をいただきましょうか。
一日10食限定、特製地魚どんぶりをいただきました。おいしかったです!
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昼食後、あとは帰るだけです。
さいとう製菓(大船渡津波伝承館の齊藤館長が勤めていた会社)の復興した本店、かもめテラス(HP→こちら)でお土産(かもめの玉子)を買い一路千葉へ・・。
と、その前に、せっかくここまで来たのだから、ともう少し足を延ばしましょうか。
ピンクのポスト??
ん?っとここはどこでしょう?
正解は、恋し浜。(愛の磯辺、ってすごいね。^^)
タモリの番組かなんかで見て、一度来て見たかったとこです。
大津波で荒れ狂った海も、今は静かに。
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そして一路千葉へまっすぐかえりました。(7時間以上かかりました。)