(八丈島リサーチ①「無人島開拓の偉人」玉置半右衛門①(こちら)の続きの記事です)
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【文久2年最初の小笠原開拓民の選考】
ここで少し玉置半右衛門を脇に置いて、八丈島からの開拓民たちに光を当てます。前記事で触れました(こちら)が、幕府は国領の島をゼロから切り拓くため、文久2年(1862年)8月八丈島から募った農民(開拓民)30名を父島に送り込みました。開拓民の募集の内容は次の通りでした。
「八丈島から東南へ約180里の小笠原島を開拓するため、最初の移住者としてふさわしい夫婦15組(男女各15人)を選考し、報告してください。」
「移住者には事前に準備金が支給されます。現地で自給自足(主食・衣服)ができるようになるまでは、家(小屋)の建築をはじめ、米、麦、味噌、醤油などの全食料が幕府から支給され、さらに労働の成果に応じた報奨金も与えられます。」
「(中略)たとえ貧しくとも人柄が良ければ、相思相愛の男女を添い遂げさせて移住させて構いません。もし独身の男性が移住を希望する場合は、その男に娶わせるためのふさわしい女性を選び、また、独身の女性が移住を希望する場合も、同じように娶わせるための男性を選んで連れて行くようにしてください。」(以上※1及び※2の現代語訳(要約))
準備金、衣食住の用意、報奨金まで至れり尽くせりです。幕府のかけた意気込みが伝わってきます。と言いますか、こうでもしない限り誰が「鳥も通わぬ八丈島」よりも、はるか遠い天地の果ての「小笠原」に好んでいきますでしょうか。八丈島に移住を希望する人々に対して説明と説得した代官の部下は、それは美辞麗句を並べ必死に勧誘したことが伺い知れます。
【選ばれた八丈島の開拓農民30名の内訳「8歳と5歳の夫婦まで作って」】
こうして男女30人の開拓民が決まりました。内訳は次の通りです。
- 大賀郷[計6人:男3・女3]
百姓 孫助:32歳【男】女房 みよ:35歳【女】
百姓 與佐吉:46歳【男】女房 ぬい:43歳【女】
百姓 藤助:32歳【男】女房 たを:30歳【女】 - 三根村[計2人:男1・女1]
百姓 重五郎:35歳【男】女房 てい:40歳【女】 - 末吉村[計8人:男4・女4]
百姓 惣七:54歳【男】女房 きそ:46歳【女】
倅(息子)四郎:14歳【男】 ➔(※松次の娘「女子」と娶せ)
娘 ふさ:16歳【女】 ➔(※松次の息子「常松」に嫁ぐ)
百姓 松次:41歳【男】女房 てつ:35歳【女】
倅(息子)常松:13歳【男】 ➔(※惣七の娘「ふさ」と娶せ)
娘 女子(おんなこ):9歳【女】 ➔(※惣七の息子「四郎」に嫁ぐ)
※この2家族の間で、子供同士のクロス交換婚(めあはせ)が行われています。 - 中之郷[計6人:男3・女3]
百姓 市八:37歳【男】同女房 いわ:28歳【女】
百姓 市右衛門:47歳【男】(※農業・大工・漁業)同女房 とく:40歳【女】
百姓 長次郎:21歳【男】同女房 はち:13歳【女】 - 樫立村[計8人:男4・女4]
百姓 傳吉:31歳【男】(※農業・大工・漁業)同女房 きよ:30歳【女】
倅(息子)傳次:8歳【男】 ➔(※金次の娘「とよ」と婚姻約束)
娘 なへ:9歳【女】 ➔(※金次の息子「勇次」に嫁ぐ)
百姓 金次:32歳【男】同女房 わき:30歳【女】
倅(息子)勇次:12歳【男】 ➔(※傳吉の娘「なへ」と婚姻約束)
娘 とよ:5歳【女】 ➔(※傳吉の息子「傳次」に嫁ぐ)
※この2家族の間でも、幼い子供同士の交換婚が成立しています。
(※2の現代語訳㊟)
なんとぴったり15組30人。指示書にあった「男性15人、女性15人、いずれも夫婦で」という幕府の無茶振りをクリアするため、八丈島の各村が総力を挙げ、5歳〜16歳の子供たちまで動員して「15組のペア」を仕立て上げた歴史の裏舞台が垣間見えます。中之郷の「長次郎21歳」と「はち13歳」の夫婦はいかにも俄かですし幼な妻、また末吉村の「惣七の娘(ふさ・16歳)」と「松次の倅(常松・13歳)」を娶らせ、さらにその弟妹である「惣七の倅(四郎・14歳)」と「松次の娘(女子・9歳)」を娶らせるという、2つの家族の間で子供たちを完全にトレードして2組の夫婦を作ったり、さらには樫立村の傳吉の家と金次の家で、「なへ(9歳)」×「勇次(12歳)」「傳次(8歳)」×「とよ(5歳)」という、なんと12歳と9歳、8歳と5歳のペアまで作って婚約者として登録している点に幕府の「何が何でも」というなりふり構わない執念と、それに対する開拓民の「ならば」という本気度を感じます。
【軍艦・朝陽丸船長が書き残した開拓民の印象】
選ばれた開拓民は幕府の軍艦・朝陽丸に乗船し文久2年(1862年)8月26日父島に入島します。この時の朝陽丸の艦長が八丈島の開拓民について書き残している文章が興味深いので全文引用します。
「八丈島の婦人は頭髪長きこと六尺、其身立ちて髪毛を巳れの足前に下ろし、夫より折り敷きて余れるを計るに多きは一尺、少きも五六寸あり。土地の気候にもより、亦各自保護の厚きにも因る哉。同島製の焼酎酒を船中へ持参せしを味ひしに、酒気烈しく薯蕷(芋の一種、またはサツマイモ等)より採りたる物にて臭気強く、此島には砂糖稀なる故同品を輿へしに顔に珍重す。」(※3)要約すると
- 女性の髪:髪の長さが6尺(約1.8メートル)もあり、足元まで垂らして折り返して結う
- 焼酎:八丈島で作られた焼酎を船中で味わったところ、芋から作られているためか、非常に臭気が強く烈しい酒だった
- 砂糖:当時は島で砂糖が貴重であったため、砂糖を渡したところ、非常に珍重された
となります。
女性の長髪、というのは伊豆諸島特有の風習で昭和の中頃(私が生まれた時代)ぐらいまでその伝統は引き継がれていたように記憶しています(今は分かりませんが)。「土地の気候にもより、亦各自保護の厚きにも因る哉。」とありますのは「土地の気候によるものか、あるいはそれぞれが熱心に髪を手入れして保護しているのだろうか」と感心しているのが文章から感じます。
八丈島の芋焼酎は、江戸時代に薩摩からの流人が製造方法を伝えたことが原点でまろやかな甘みが特徴の島酒と言われますが、この当時は匂い強くきつい酒だったのでしょうか。
砂糖は八丈島は江戸から遠く離れた流人の島であり、生活物資の多くが制限されているなかで砂糖は贅沢品で貴重なものだったかと思います。開拓民たちがたいそう喜んでいる光景が目に浮かびます。
この八丈島からの30人が「小笠原最初の(日本人)開拓者」なのです。歴史上では小花作之助や中浜万次郎など(こちら略歴)の名が史に彩られていますが、実際に入植して開拓したのはこの八丈島の農民でした。

開拓民を小笠原に送った「朝陽丸」(※4より転載)
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【開拓民の小笠原での環境「情報が遮断された世界」】
さて。文久2年(1862年)8月に小笠原に入島した開拓民。彼らにとってここ小笠原は天地の果てです。この島にいるのは役人と先住民の外国人のみ。今の世のように電話や電信などの通信機器は一切なく、文字通り「情報が遮断された世界」でした。本土との連絡手段は年に数回往来する幕府の「御用船(咸臨丸など)」のみ。もちろん、小笠原と故郷の八丈島が直接連絡を取り合う手段などほぼない。島の周りは茫洋と広がる海だけ。
時折補給や捕鯨のために立ち寄るアメリカやイギリスの外国船がもたらす噂話やニュースの方が、最新の情報であることすらありました。しかし八丈島の開拓民には外国船の外国人による話などなんのことやらさっぱりわからん。なんのこっちゃでしたでしょう。
TVもラジオも何もない時代。朝起きて日暮れるまでただひたすら開墾に精を出していたことでしょう。「鳥も通わぬ八丈島」の遥か彼方の見知らぬ島で。江戸から1,000キロも離れた絶海の孤島で。5歳と8歳のペアまで作ってやってきて。ただひたすら、ただひたすら。働いて酒を飲んでまた働いて。幕府のためお国のため。頑張ってましたよ、八丈島の開拓民は。・・ところが時代が彼らを翻弄します。
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【わずか9ヶ月での撤退命令】
文久2年8月に八丈島の農民らを引き連れて意気揚々と始まった小笠原開拓。開拓民や大工の半右衛門らは黙々と島を切り拓いていました。しかし、わずか9ヶ月後、本土の都合(英国との開戦警戒)により「全員強制引き揚げ」という突然の結末を迎えることになります。
ここからは世の動きと小笠原を時系列で記します。
■ 文久2年(1862年)
8月19日
・【小笠原】軍艦・朝陽丸が、小笠原開拓のため浦賀を出港。(※3)
8月21日【同日の動き:開拓の始まりと、大事件の発生】
・【小笠原】朝陽丸が八丈島に入港。移民・大工ら38名を乗せて同日出航。(※3)
・【本 土】東海道の生麦村で「生麦事件」が発生。薩摩藩の一行がイギリス人を殺傷。
8月26日
・【小笠原】朝陽丸が父島に到着。本格的な小笠原開拓がスタート。(※3)
閏8月1日
・【本 土】会津藩主・松平容保が「京都守護職」に任命される。
閏8月
・【本 土】京都の朝廷や過激な尊皇攘夷派が「よくぞ異人を斬った」と大熱狂する。
11月27日
・【本 土】追い詰められた幕府が朝廷に「将軍の上洛」と「攘夷の実行」を約束。幕府の権威が完全に失墜。
12月9日
・【本 土】松平容保が軍勢を率いて京都に到着。
年末の状況
・【本 土】「来春に将軍上洛」「英国の報復危機」「京都に会津藩駐留」と、国内は大爆発直前の様相。
・【小笠原】そうした本土の危機を知らぬまま、開拓民は開拓を、大工の半右衛門らは黙々と官舎や住居を建築。
■ 文久3年(1863年)
1月9日
・【万次郎】平野船(壱番丸)がジョン万次郎らを乗せ父島に入港。捕鯨ボート2隻の製造に着手。(半右衛門請負、3月初旬に完成。(前記事で詳細こちら))(※5)
2月13日
・【本 土】将軍・徳川家茂が江戸を出発、京都へ。
2月19日
・【本 土】イギリスが幕府に最後通牒。公式謝罪と賠償金10万ポンドを要求。拒否すれば武力行使と脅す。
3月4日
・【本 土】将軍・徳川家茂が京都(二条城)に到着。
3月17日
・【万次郎】万次郎らの平野船が捕鯨事業のため出航。約一ヶ月間で鯨2匹の成果。(※5)
3月24日
・【万次郎】鳥島に上陸。「大日本属島、鳥島」の標木を建てる。(※5)
4月18日
・【本 土】「イギリス艦隊が報復のため大坂湾に向かっている」という噂が流れる。
4月20日
・【本 土】将軍・家茂が朝廷に「5月10日」の「攘夷期限」を約束。(裏では英国と賠償金交渉の二枚舌)
4月22日
・【万次郎】捕鯨船で海賊行為(ホーツン事件)が発生。万次郎らが犯人を拘留。
5月1日【同日の動き:すれ違う引き揚げ命令と平野丸の出航】
・【小笠原】万次郎らは本土の状況を知らぬまま、犯人連行のため父島を出港。(※5)
・【本 土】英国との開戦を警戒した幕府が小笠原撤退を決断。朝陽丸が「全員引き揚げ命令」を帯びて品川を出帆。
5月9日【同日の動き:島に届いた撤退令と、江戸での賠償金支払い】
・【小笠原】朝陽丸が父島に到着。「全員引き揚げ」の命令が伝わり、大急ぎで撤退準備が始まる。(開拓開始からわずか9ヶ月での撤退命令。)(※3)
・【本 土】一方、幕府はイギリスに生麦事件の賠償金10万ポンドを全額支払う。
5月10日
・【本 土】攘夷期限の日。長州藩が下関海峡で外国船に大砲をぶっ放す(下関事件の始まり)。
5月11日
・【万次郎】万次郎らの平野船が横浜港に到着。(※5)
5月13日
・【小笠原】たった4日で全てを擲ち朝陽丸が役人と移民らを全員乗せて離島。(小笠原開拓撤退)。(※3)
5月17日
・【万次郎】横浜に到着した万次郎らが、ホーツン事件の犯人2名を米国領事館へ引き渡す。(※5)
5月19〜20日
・【小笠原】移民らを乗せて朝陽丸が浦賀へ帰着(到着)。翌日、役人たちが江戸に帰還し、小笠原からの全面撤退が完了。(※3)
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【幕末の荒波は、遠く離れた絶海の孤島の開拓民を容赦なく巻き込んで】
もう、なんも言えないですね。文久3年の5月1日~13日の約2週間は小笠原在住の役人・開拓民たちは「なにこれー」って感じですよね。クジラを捕って盛り上がっていたジョン万次郎たちの「平野船」は、外国人の暴動(ホーツン事件)で血相を変えて突然江戸へ帰ってしまったかと思えば、間もない5月9日、今度は「朝陽丸」が血相を変えて港に入ってきて、「明日5月10日、日本が外国と戦争を始める(攘夷期限)。お前たちも巻き込まれるから、今すぐ荷物をまとめて船に乗れ!」という、あまりにも理不尽な強制撤収命令ですよ。口あんぐり開けて「ハラホロヒレハレ」です。
せっかく八丈島から移住し、家を建て、畑を耕し、これから小笠原で生きていこうと決意したばかりの開拓民たちです。しかし、朝陽丸が島にいたのはわずか4日間(5月9日着〜13日出港)。じっくり片付ける暇などあるはずもなく、家財道具を放り出すようにして船に飛び乗ったはずです。「なへちゃん(9歳)」×「勇次くん(12歳)」「傳次くん(8歳)」×「とよちゃん(5歳)」たちなんて、何が起こっているのかも分からなかったことでしょう。実は私の孫が5歳の女の子です。「とよちゃん(5歳)」を思うと何とも言えないせつない気持ちになります。幕末の荒波は、東京から1,000キロ離れた絶海の孤島にいた一般の領民たちをも、容赦なく巻き込んでいたのです。
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ちなみにジョン万次郎たちも「まさか自分たちが小笠原島を出た日(5月1日)に、江戸から引き揚げ船が出発していた」とは夢にも思わずにいたことでしょう。当時は無線電信がまだ日本に存在しません。小笠原と本土(江戸)をリアルタイムで結ぶ通信手段はなく、情報は「船が直接手紙を運ぶ」しかありませんでした。
朝陽丸が「引き揚げ命令」を受けて品川を出発したのも、万次郎たちの平野船(壹番丸)が犯人を乗せて父島を出発したのも、まったく同じ「5月1日」です。江戸で撤退の最終決定が下され、朝陽丸が動いたその瞬間に、1,000km離れた父島にいる万次郎たちがその事実を知ることは物理的に不可能でした。
平野船は父島から横浜へ北上し、朝陽丸は品川から父島へ南下していました。太平洋の広い洋上で両船が互いを目視して通信(旗信号など)を行うこともなかったでしょう。万次郎たちが小笠原撤退を知ったのは5月11日横浜に着いた後だったと思います。せっかく念願の捕鯨事業をこれからやるぞ、というときにこれです。万次郎の胸中もまた察するものがあります。
続きは
《八丈島リサーチ③「無人島開拓の偉人」玉置半右衛門③➡こちら》
【文中出典】
(※1 出典:永久保満 著『趣味の東京府八丈島誌』99P100P 昭12年、 国立国会図書館デジタルコレクション )
(※2出典:資料 坂田諸遠 編纂『小笠原島紀事 31巻首1巻 巻之12』明治年間、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟開拓民の内訳の名前の読みは素人(私)がくずし字文を翻刻しているので正確性に欠けです。ここでは開拓民の構成を示したかったのであえて正確性に欠けると認識しながらも掲載しています。正確に翻刻できる方がいらっしゃればご教示いただきたいものです。)
(※3 出典:文倉平次郎 著『幕末軍艦咸臨丸』326P 昭13年、 国立国会図書館デジタルコレクション(当該箇所全文引用))
(※4 出典:新人物往来社『イラストでみる箱館戦争』 1988年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟『遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図』市立函館図書館収蔵の複写)
(※5 出典:中浜東一郎 著『中浜万次郎伝』342P 昭11年、 国立国会図書館デジタルコレクション)



