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 ~ 定年 another story ~

八丈島リサーチ②「無人島開拓の偉人」玉置半右衛門②「わずか9ヶ月で強制撤収した小笠原最初の開拓者30人の顛末記」

(八丈島リサーチ①「無人島開拓の偉人」玉置半右衛門①(こちら)の続きの記事です)

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【文久2年最初の小笠原開拓民の選考】

ここで少し玉置半右衛門を脇に置いて、八丈島からの開拓民たちに光を当てます。前記事で触れました(こちら)が、幕府は国領の島をゼロから切り拓くため、文久2年(1862年)8月八丈島から募った農民(開拓民)30名を父島に送り込みました。開拓民の募集の内容は次の通りでした。

「八丈島から東南へ約180里の小笠原島を開拓するため、最初の移住者としてふさわしい夫婦15組(男女各15人)を選考し、報告してください。」

「移住者には事前に準備金が支給されます。現地で自給自足(主食・衣服)ができるようになるまでは、家(小屋)の建築をはじめ、米、麦、味噌、醤油などの全食料が幕府から支給され、さらに労働の成果に応じた報奨金も与えられます。」

「(中略)たとえ貧しくとも人柄が良ければ、相思相愛の男女を添い遂げさせて移住させて構いません。もし独身の男性が移住を希望する場合は、その男に娶わせるためのふさわしい女性を選び、また、独身の女性が移住を希望する場合も、同じように娶わせるための男性を選んで連れて行くようにしてください。」(以上※1及び※2の現代語訳(要約))

準備金、衣食住の用意、報奨金まで至れり尽くせりです。幕府のかけた意気込みが伝わってきます。と言いますか、こうでもしない限り誰が「鳥も通わぬ八丈島」よりも、はるか遠い天地の果ての「小笠原」に好んでいきますでしょうか。八丈島に移住を希望する人々に対して説明と説得した代官の部下は、それは美辞麗句を並べ必死に勧誘したことが伺い知れます。

【選ばれた八丈島の開拓農民30名の内訳「8歳と5歳の夫婦まで作って」】

こうして男女30人の開拓民が決まりました。内訳は次の通りです。

  • 大賀郷[計6人:男3・女3]
    百姓 孫助:32歳【男】女房 みよ:35歳【女】
    百姓 與佐吉:46歳【男】女房 ぬい:43歳【女】
    百姓 藤助:32歳【男】女房 たを:30歳【女】
  • 三根村[計2人:男1・女1]
    百姓 重五郎:35歳【男】女房 てい:40歳【女】
  • 末吉村[計8人:男4・女4]
    百姓 惣七:54歳【男】女房 きそ:46歳【女】
    倅(息子)四郎:14歳【男】 ➔(※松次の娘「女子」と娶せ)
    娘 ふさ:16歳【女】 ➔(※松次の息子「常松」に嫁ぐ)
    百姓 松次:41歳【男】女房 てつ:35歳【女】
    倅(息子)常松:13歳【男】 ➔(※惣七の娘「ふさ」と娶せ)
    娘 女子(おんなこ):9歳【女】 ➔(※惣七の息子「四郎」に嫁ぐ)
    ※この2家族の間で、子供同士のクロス交換婚(めあはせ)が行われています。
  • 中之郷[計6人:男3・女3]
    百姓 市八:37歳【男】同女房 いわ:28歳【女】
    百姓 市右衛門:47歳【男】(※農業・大工・漁業)同女房 とく:40歳【女】
    百姓 長次郎:21歳【男】同女房 はち:13歳【女】
  • 樫立村[計8人:男4・女4]
    百姓 傳吉:31歳【男】(※農業・大工・漁業)同女房 きよ:30歳【女】
    倅(息子)傳次:8歳【男】 ➔(※金次の娘「とよ」と婚姻約束)
    娘 なへ:9歳【女】 ➔(※金次の息子「勇次」に嫁ぐ)
    百姓 金次:32歳【男】同女房 わき:30歳【女】
    倅(息子)勇次:12歳【男】 ➔(※傳吉の娘「なへ」と婚姻約束)
    娘 とよ:5歳【女】 ➔(※傳吉の息子「傳次」に嫁ぐ)
    ※この2家族の間でも、幼い子供同士の交換婚が成立しています。
    (※2の現代語訳㊟)

なんとぴったり15組30人。指示書にあった「男性15人、女性15人、いずれも夫婦で」という幕府の無茶振りをクリアするため、八丈島の各村が総力を挙げ、5歳〜16歳の子供たちまで動員して「15組のペア」を仕立て上げた歴史の裏舞台が垣間見えます。中之郷の「長次郎21歳」と「はち13歳」の夫婦はいかにも俄かですし幼な妻、また末吉村の「惣七の娘(ふさ・16歳)」と「松次の倅(常松・13歳)」を娶らせ、さらにその弟妹である「惣七の倅(四郎・14歳)」と「松次の娘(女子・9歳)」を娶らせるという、2つの家族の間で子供たちを完全にトレードして2組の夫婦を作ったり、さらには樫立村の傳吉の家と金次の家で、「なへ(9歳)」×「勇次(12歳)」「傳次(8歳)」×「とよ(5歳)」という、なんと12歳と9歳、8歳と5歳のペアまで作って婚約者として登録している点に幕府の「何が何でも」というなりふり構わない執念と、それに対する開拓民の「ならば」という本気度を感じます。

【軍艦・朝陽丸船長が書き残した開拓民の印象】

選ばれた開拓民は幕府の軍艦・朝陽丸に乗船し文久2年(1862年)8月26日父島に入島します。この時の朝陽丸の艦長が八丈島の開拓民について書き残している文章が興味深いので全文引用します。

「八丈島の婦人は頭髪長きこと六尺、其身立ちて髪毛を巳れの足前に下ろし、夫より折り敷きて余れるを計るに多きは一尺、少きも五六寸あり。土地の気候にもより、亦各自保護の厚きにも因る哉。同島製の焼酎酒を船中へ持参せしを味ひしに、酒気烈しく薯蕷(芋の一種、またはサツマイモ等)より採りたる物にて臭気強く、此島には砂糖稀なる故同品を輿へしに顔に珍重す。」(※3)要約すると

  • 女性の髪:髪の長さが6尺(約1.8メートル)もあり、足元まで垂らして折り返して結う
  • 焼酎:八丈島で作られた焼酎を船中で味わったところ、芋から作られているためか、非常に臭気が強く烈しい酒だった
  • 砂糖:当時は島で砂糖が貴重であったため、砂糖を渡したところ、非常に珍重された

となります。
女性の長髪、というのは伊豆諸島特有の風習で昭和の中頃(私が生まれた時代)ぐらいまでその伝統は引き継がれていたように記憶しています(今は分かりませんが)。「土地の気候にもより、亦各自保護の厚きにも因る哉。」とありますのは「土地の気候によるものか、あるいはそれぞれが熱心に髪を手入れして保護しているのだろうか」と感心しているのが文章から感じます。
八丈島の芋焼酎は、江戸時代に薩摩からの流人が製造方法を伝えたことが原点でまろやかな甘みが特徴の島酒と言われますが、この当時は匂い強くきつい酒だったのでしょうか。
砂糖は八丈島は江戸から遠く離れた流人の島であり、生活物資の多くが制限されているなかで砂糖は贅沢品で貴重なものだったかと思います。開拓民たちがたいそう喜んでいる光景が目に浮かびます。

この八丈島からの30人が「小笠原最初の(日本人)開拓者」なのです。歴史上では小花作之助や中浜万次郎など(こちら略歴)の名が史に彩られていますが、実際に入植して開拓したのはこの八丈島の農民でした。

朝陽丸
開拓民を小笠原に送った「朝陽丸」(※4より転載)

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【開拓民の小笠原での環境「情報が遮断された世界」】

さて。文久2年(1862年)8月に小笠原に入島した開拓民。彼らにとってここ小笠原は天地の果てです。この島にいるのは役人と先住民の外国人のみ。今の世のように電話や電信などの通信機器は一切なく、文字通り「情報が遮断された世界」でした。本土との連絡手段は年に数回往来する幕府の「御用船(咸臨丸など)」のみ。もちろん、小笠原と故郷の八丈島が直接連絡を取り合う手段などほぼない。島の周りは茫洋と広がる海だけ。
時折補給や捕鯨のために立ち寄るアメリカやイギリスの外国船がもたらす噂話やニュースの方が、最新の情報であることすらありました。しかし八丈島の開拓民には外国船の外国人による話などなんのことやらさっぱりわからん。なんのこっちゃでしたでしょう。
TVもラジオも何もない時代。朝起きて日暮れるまでただひたすら開墾に精を出していたことでしょう。「鳥も通わぬ八丈島」の遥か彼方の見知らぬ島で。江戸から1,000キロも離れた絶海の孤島で。5歳と8歳のペアまで作ってやってきて。ただひたすら、ただひたすら。働いて酒を飲んでまた働いて。幕府のためお国のため。頑張ってましたよ、八丈島の開拓民は。・・ところが時代が彼らを翻弄します。

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【わずか9ヶ月での撤退命令】

文久2年8月に八丈島の農民らを引き連れて意気揚々と始まった小笠原開拓。開拓民や大工の半右衛門らは黙々と島を切り拓いていました。しかし、わずか9ヶ月後、本土の都合(英国との開戦警戒)により「全員強制引き揚げ」という突然の結末を迎えることになります。

ここからは世の動きと小笠原を時系列で記します。

文久2年(1862年)
8月19日
・【小笠原】軍艦・朝陽丸が、小笠原開拓のため浦賀を出港。(※3)
8月21日【同日の動き:開拓の始まりと、大事件の発生
・【小笠原】朝陽丸が八丈島に入港。移民・大工ら38名を乗せて同日出航。(※3)
・【本 土】東海道の生麦村で「生麦事件」が発生。薩摩藩の一行がイギリス人を殺傷。
8月26日
・【小笠原】朝陽丸が父島に到着。本格的な小笠原開拓がスタート。(※3)
閏8月1日
・【本 土】会津藩主・松平容保が「京都守護職」に任命される。
閏8月
・【本 土】京都の朝廷や過激な尊皇攘夷派が「よくぞ異人を斬った」と大熱狂する。
11月27日
・【本 土】追い詰められた幕府が朝廷に「将軍の上洛」と「攘夷の実行」を約束。幕府の権威が完全に失墜。
12月9日
・【本 土】松平容保が軍勢を率いて京都に到着。
年末の状況
・【本 土】「来春に将軍上洛」「英国の報復危機」「京都に会津藩駐留」と、国内は大爆発直前の様相。
・【小笠原】そうした本土の危機を知らぬまま、開拓民は開拓を、大工の半右衛門らは黙々と官舎や住居を建築。
文久3年(1863年)
1月9日
・【万次郎】平野船(壱番丸)がジョン万次郎らを乗せ父島に入港。捕鯨ボート2隻の製造に着手。(半右衛門請負、3月初旬に完成。(前記事で詳細こちら))(※5)
2月13日
・【本 土】将軍・徳川家茂が江戸を出発、京都へ。
2月19日
・【本 土】イギリスが幕府に最後通牒。公式謝罪と賠償金10万ポンドを要求。拒否すれば武力行使と脅す。
3月4日
・【本 土】将軍・徳川家茂が京都(二条城)に到着。
3月17日
・【万次郎】万次郎らの平野船が捕鯨事業のため出航。約一ヶ月間で鯨2匹の成果。(※5)
3月24日
・【万次郎】鳥島に上陸。「大日本属島、鳥島」の標木を建てる。(※5)
4月18日
・【本 土】「イギリス艦隊が報復のため大坂湾に向かっている」という噂が流れる。
4月20日
・【本 土】将軍・家茂が朝廷に「5月10日」の「攘夷期限」を約束。(裏では英国と賠償金交渉の二枚舌)
4月22日
・【万次郎】捕鯨船で海賊行為(ホーツン事件)が発生。万次郎らが犯人を拘留。
5月1日【同日の動き:すれ違う引き揚げ命令と平野丸の出航
・【小笠原】万次郎らは本土の状況を知らぬまま、犯人連行のため父島を出港。(※5)
・【本 土】英国との開戦を警戒した幕府が小笠原撤退を決断。朝陽丸が「全員引き揚げ命令」を帯びて品川を出帆。
5月9日【同日の動き:島に届いた撤退令と、江戸での賠償金支払い
・【小笠原】朝陽丸が父島に到着。「全員引き揚げ」の命令が伝わり、大急ぎで撤退準備が始まる。(開拓開始からわずか9ヶ月での撤退命令。)(※3)
・【本 土】一方、幕府はイギリスに生麦事件の賠償金10万ポンドを全額支払う。
5月10日
・【本 土】攘夷期限の日。長州藩が下関海峡で外国船に大砲をぶっ放す(下関事件の始まり)。
5月11日
・【万次郎】万次郎らの平野船が横浜港に到着。(※5)
5月13日
・【小笠原】たった4日で全てを擲ち朝陽丸が役人と移民らを全員乗せて離島。(小笠原開拓撤退)。(※3)
5月17日
・【万次郎】横浜に到着した万次郎らが、ホーツン事件の犯人2名を米国領事館へ引き渡す。(※5)
5月19〜20日
・【小笠原】移民らを乗せて朝陽丸が浦賀へ帰着(到着)。翌日、役人たちが江戸に帰還し、小笠原からの全面撤退が完了。(※3)

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【幕末の荒波は、遠く離れた絶海の孤島の開拓民を容赦なく巻き込んで】

もう、なんも言えないですね。文久3年の5月1日~13日の約2週間は小笠原在住の役人・開拓民たちは「なにこれー」って感じですよね。クジラを捕って盛り上がっていたジョン万次郎たちの「平野船」は、外国人の暴動(ホーツン事件)で血相を変えて突然江戸へ帰ってしまったかと思えば、間もない5月9日、今度は「朝陽丸」が血相を変えて港に入ってきて、「明日5月10日、日本が外国と戦争を始める(攘夷期限)。お前たちも巻き込まれるから、今すぐ荷物をまとめて船に乗れ!」という、あまりにも理不尽な強制撤収命令ですよ。口あんぐり開けて「ハラホロヒレハレ」です。

せっかく八丈島から移住し、家を建て、畑を耕し、これから小笠原で生きていこうと決意したばかりの開拓民たちです。しかし、朝陽丸が島にいたのはわずか4日間(5月9日着〜13日出港)。じっくり片付ける暇などあるはずもなく、家財道具を放り出すようにして船に飛び乗ったはずです。「なへちゃん(9歳)」×「勇次くん(12歳)」「傳次くん(8歳)」×「とよちゃん(5歳)」たちなんて、何が起こっているのかも分からなかったことでしょう。実は私の孫が5歳の女の子です。「とよちゃん(5歳)」を思うと何とも言えないせつない気持ちになります。幕末の荒波は、東京から1,000キロ離れた絶海の孤島にいた一般の領民たちをも、容赦なく巻き込んでいたのです。

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ちなみにジョン万次郎たちも「まさか自分たちが小笠原島を出た日(5月1日)に、江戸から引き揚げ船が出発していた」とは夢にも思わずにいたことでしょう。当時は無線電信がまだ日本に存在しません。小笠原と本土(江戸)をリアルタイムで結ぶ通信手段はなく、情報は「船が直接手紙を運ぶ」しかありませんでした。

朝陽丸が「引き揚げ命令」を受けて品川を出発したのも、万次郎たちの平野船(壹番丸)が犯人を乗せて父島を出発したのも、まったく同じ「5月1日」です。江戸で撤退の最終決定が下され、朝陽丸が動いたその瞬間に、1,000km離れた父島にいる万次郎たちがその事実を知ることは物理的に不可能でした。

平野船は父島から横浜へ北上し、朝陽丸は品川から父島へ南下していました。太平洋の広い洋上で両船が互いを目視して通信(旗信号など)を行うこともなかったでしょう。万次郎たちが小笠原撤退を知ったのは5月11日横浜に着いた後だったと思います。せっかく念願の捕鯨事業をこれからやるぞ、というときにこれです。万次郎の胸中もまた察するものがあります。


   続きは

《八丈島リサーチ③「無人島開拓の偉人」玉置半右衛門③➡こちら》

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【文中出典】

(※1 出典:永久保満 著『趣味の東京府八丈島誌』99P100P 昭12年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※2出典:資料 坂田諸遠 編纂『小笠原島紀事 31巻首1巻 巻之12』明治年間、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟開拓民の内訳の名前の読みは素人(私)がくずし字文を翻刻しているので正確性に欠けです。ここでは開拓民の構成を示したかったのであえて正確性に欠けると認識しながらも掲載しています。正確に翻刻できる方がいらっしゃればご教示いただきたいものです。)

(※3 出典:文倉平次郎 著『幕末軍艦咸臨丸』326P 昭13年、 国立国会図書館デジタルコレクション(当該箇所全文引用))

(※4 出典:新人物往来社『イラストでみる箱館戦争』 1988年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟『遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図』市立函館図書館収蔵の複写)

(※5 出典:中浜東一郎 著『中浜万次郎伝』342P 昭11年、 国立国会図書館デジタルコレクション

八丈島リサーチ①「無人島開拓の偉人」玉置半右衛門①

八丈島。島の大きさ・位置などは前回記事で見ました(こちら)。現在日程を組んで今月末のヘリの予約を待って具体化するところまで準備は進みました。

来月八丈島を旅することにしたのは、南北大東島での旅で八丈島に関心を持ったから(こちら)です。予約を待つ間、しばらく島のリサーチに費やすことにします。無職の特権を生かして。笑

何故八丈島の人たちが大東島を開拓したのか。

これが今回の旅のテーマの一つです。
八丈島と大東島は1150kmも離れています(こちら)。沖縄ー大東島間の360kmより3倍以上離れているのです。それなのに八丈島の人たちが126年前上陸し南北大東島を開拓した。その理由を知るために、まず島の開拓者、八丈島出身の玉置半右衛門という偉人について調べようと思います。

なお、玉置半右衛門は明治時代の日本の無人島開拓史において、絶海に浮かぶ鳥島や大東諸島へ命がけで入植し、「孤島」を近代産業の拠点へと変貌させた近代の名士ですが、一方でアホウドリの捕獲により巨万の富を得たという側面ばかりが強調され、一面的な見解から否定的に評価する風潮も一部にあるようです。

功罪の評価は私がどうこう言う立場にありませんが、彼のフロンティア精神がこの八丈島から始まったと思うと、歴史のロマンを感じます。

そのためここでは、「無人島開拓の偉人」としての側面から追ってみたいと思います。


【玉置半右衛門略歴】
玉置半右衛門の生没は天保9年(1838)10月1日伊豆八丈島大賀郷村に生まれ、明治43年(1910)11月1日、肺臓麻痺により自邸にて逝去(享年73)(※1)。

彼の足跡を時系列で見てみると、驚くべき事実が見えてきます。
50歳(1887年):鳥島開拓に着手
63歳(1900年):大東島の開拓に着手
69歳(1906年):ラサ島(沖大東島)の開発開始
73歳(1910年):逝去
つまり、彼が本格的な離島開発を行ったのは50歳からの僅か23年間のこと。さらに、あの大東島を開拓し始めてからはたったの10年で生涯を閉じた、ということになります。

50代・60代になってから、鳥島や大東諸島といった「当時誰も手をつけられなかった絶海の孤島」へ次々と挑み、日本の領域拡大と産業興隆に生涯を捧げたその超人的なエネルギー。八丈島の風土が、これほどまでに強靭な開拓者を育んだのかと思うと、改めてそのフロンティア精神の凄まじさに圧倒されます。

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では、50歳になるまでの玉置半右衛門の半生はどう生きてきたのか。

過去の資料を紐解いてゆくと、伝聞や伝記的なものもあって史実かどうか迷うところもありますが、いくつかの出典で裏付けながら半生を見てゆこうと思います。

【半右衛門の生い立ちと時代背景】

玉置半右衛門が生まれた天保年間には全国的な凶作による物価高騰や天保の大飢饉、百姓一揆がおこっており、老中水野忠邦による天保の改革が進められるも失敗し幕府への信頼が低下していく時代です。

当時の八丈島は江戸幕府直轄の流刑地であって「鳥も通わぬ島」でした。過酷な飢饉(※2)にたびたび襲われ、慢性的な飢饉の際に口減らしのために高齢者を残したとされる「人捨穴」まで存在します。半右衛門はこうした時代背景に生まれました。

半右衛門の家系は、紀伊(現在の和歌山県)から赴任した代官を先祖に持つ、島内の名家で彼はその13世の孫といわれています(※3)。別の資料(※1)にも「伊豆八丈島の代官の家に生まる」とあることから、彼が歴史ある家系に生まれたことは確かなようですが、半右衛門の代の玉置家は公職ではなく半漁半農で生計をたてていたようです(※4)。

半右衛門が大賀郷のどこに生まれたか、生家は近年まで不明でした(※5)。(これは半右衛門が自由民権運動に参画し失敗、島を追われた結果、彼の公式記録が消されたためですが、この件は後述します。)

【青少年期の半右衛門】

明治維新前の八丈島には公的な学校はありませんでした(※3)が、半右衛門の生まれた大賀郷は島役所が近く島の中心地であったことから、流刑となった多くの知識人(流人)が暮らし、島民に文化や学問を伝える土壌がありました。

12-3歳のころ半右衛門は八丈島に島流し(流刑)にされていた大工の棟梁・石山留五郎に弟子入りし、大工の修行を始めました(※6)。この流人の職人から仕込まれた確かな大工技術が、彼の人生のすべての基礎となります。12-3歳というと現代では小学校卒業する年頃でまだまだ子どもです。一方、石山留五郎は流刑から6年目の42-3歳。大工職人としての地位を確立し精力的に活動していた時期。まだ少年期の半右衛門を小間使いにしている留五郎の絵が目に浮かびます。

そればかりか、半右衛門はまた12-3歳のころより牧畜に従事し牛を飼養し、他方に漁業を事としました。八丈島の周囲の海は「沿海潮流急にして、操舟に不便であつたにも拘らず、其間を漕ぎ廻り、鱸(スズキ)捕りの名人(※4 )」と称されるほどであったといいます。

半右衛門は生涯「眼に一丁字のない人」(文字を一つも読み書きできない文盲)(※7)でしたが、文字が読めないハンディを補うためか、彼は文字の勉強ではなく「体と手先で覚える技術」つまり、大工・牧畜・漁業・操舟の技術を少年期より収め、そして「教科書的な読み書きが全くできないまま、世界を相手に貿易をし、絶海の孤島をいくつも開拓した」傑出した人物に成長してゆくのです。

16歳になると半右衛門は父から3頭の牛を貰い家から独立することとなりました(※8)。現代でいえば16歳は中学卒業したてのまだ子どもの域をでたばかりですが、江戸時代では完全に子どもを卒業した一人前の労働者・社会人です。彼は3頭の牛を引いて山に分け入り日毎薪を取って来たそうです。そしてその薪を売り白布を買いそれをまた売りと売買に励み、19歳の時には資財が増えて40餘金に達したといいます(※3)。

19歳にして40餘金。江戸時代末期の価値基準である「金40両あまり」のことで、現代の価値に換算するとおよそ400万〜600万円前後に相当します(※9)10代の若者が3年間で自力で蓄えた金額としてはかなりの大金。半右衛門没後の記事にはこのエピソードを以て「商才に長け利殖に巧みで将来貿易家たるべき資格はこの時すでにその片影を現わしていた(※10)」と評されています。

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【半右衛門の転機】

時代は文久年間(1861年〜1864年)。
幕末の動乱期にあたり、ここ八丈島は日本国家において非常に重要な役割を果たしてゆくことになります。具体的には、1861年(文久元)に江戸幕府が小笠原諸島を「日本領」であることを国際的に宣言。その開拓を進めるための実効支配の担い手として、八丈島の住民を現地へ移住・入植させるという、日本の領土の歴史における重大な転換点を迎えます。
当時の小笠原は、1830年から欧米人5人とハワイ原住民など20数人が移住して暮らしており、日本人は一人も住んでいませんでした。日本としては、日本人の居住によって実効支配を確実にし、国際社会へ領有権を主張する必要があったのです。
日本の国境線が大きく動くこの大プロジェクトに、若き日の半右衛門も深く巻き込まれていくことになるのです。

翌1862年。伊豆諸島を管轄する代官・江川太郎左衛門の部下が八丈島へと赴き、島民たちに小笠原への移住を促す説明を行いました。当時の募集内容(口上書の大意)を記録から見てみると、かなり具体的な条件が並んでいました。

~幕府による小笠原移住の募集要領(大意)~

  • 「このたび小笠原を幕府の手で開拓することになった。その第一陣として、八丈島から人々を移住させるようお達しが出た。そこで、男性15人、女性15人の計30名(いずれも夫婦の形)で小笠原島へ移住する者を人選して名乗り出させてほしい。」
  • 「また、現地での建設作業のために、大工、左官、鍛冶などの技術を心得ている者を10名ほど職人として連れて行くので、人柄の良い者を選んで申し出なさい」(※12より引用、現代文訳)

国領の島をゼロから切り拓くため、夫婦での定住者と、家を建てるための職人たちを集めるという、まさに「ガチの開拓団」の募集だったことがわかります。
時に半右衛門25歳(※13)。運命の転機。「無人島開拓の偉人」の第一歩を印す時がきました

勧誘の結果、選ばれたのは男15人・女15人の計30人の移住者と、8人の職人たち(大工5、船大工1、木挽1、鍛冶1)でした(※12)。そしてこの大工5人のうちの1人こそが、若き日の玉置半右衛門その人だったのです。12〜13歳から修行を始めて12年。この時、半右衛門は立派な大工技術者へと成長を遂げていました。

半右衛門はこの募集に、自ら積極的に応募しました。当時の小笠原は、「流刑の島」として知られた「鳥も通わぬ八丈島」よりも、はるか遠い天地の果て。親戚や友人たちは「誰が好んでそんな場所へ行き、命がけで開拓するのだ」と、こぞって彼を引き止めたそうです。

しかし、彼の志はすでに常人とは違っていました。「今こそ国家の利益、国益を重んじるべきだ」と熱く懇切丁寧に周囲を説得して同意を取り付けると、それまでに稼いだ資産をすべて隣村の商人某氏に預け、文字通り「身一つ」で幕府の船へと乗り込んだと言います(※3)。

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【運命の出合い】

小笠原に到着すると、半右衛門は高い志を胸に、精力的に仕事へと当たりました。持ち前の大工技術を活かして開拓仲間を鼓舞し、力を合わせて、またたく間に数棟の官舎や民家を建ててみせたのです。その功績は、吏員から報奨を与えられるほど目覚ましいものでした(※3)。

そしてこの小笠原の地で、半右衛門のその後の人生を大きく変える「二人の偉人」との運命の出合い(邂逅)を果たすことになります。その人物とは、

  • 「国領を守った小笠原開拓の父」:小花作之助(小花作助)巻末に人物略歴
  • 「漂流から世界を知る奇跡の外交官」:中浜万次郎(ジョン万次郎)

という教科書級の超大物たち。この交わりはまさに玉置半右衛門の人生が、日本史の大きなうねりと完全にシンクロした瞬間でした。

小花作之助は、小笠原に対する幕府の領有権を「実効支配」へと変えるため、現地責任者である「島留守居役(しまるすいやく)」に就任。
幕府の役人10人程度、そして八丈島からの開拓民38名というわずかな手勢を率いて、農業や道路の開削、住居の建設を指揮し、南洋の孤島での過酷な開拓と統治を行いました。

この困難を極める開拓現場で、誰よりも身を挺して任務に従事したのが半右衛門でした。小花はそんな半右衛門に深い信頼を寄せ、彼を重用するようになります(※14)。半右衛門もまた、この信頼に激しく感激し、ますます熱心に任務へと励みました。

当時、小花は33歳。半右衛門は25歳。まさに気鋭の中堅官吏と、働き盛りの若手大工。絶海の孤島という極限の環境で生まれたこの強い絆は、時代が幕府から「明治の世」へと激変した後も、長く続いていくことになるのです。

【中浜万次郎との邂逅】

一方、もう一人の偉人である中浜万次郎は、言わずと知れた立志伝中の人物。万次郎は文久3年(1863年)1月、日本初のアメリカ式捕鯨を実践するために小笠原へとやってきました(※15)。島に到着した万次郎は、船に積んできた木材を使って、さっそく捕鯨用のボート(端艇)2隻の製造に着手します(※16)。その際、万次郎は島の職人たちへこのように依頼しました。

「近海の鯨を漁獲したいが、船や道具が足りない。職人の力を借りて作製することはできないだろうか」(※17)

当時、島にいた職人はわずか8人。現地責任者である小花作之助から最も厚い信頼を得ていた半右衛門が、その中心として製造の任にあたったと考えられます。もともと半右衛門は、故郷の八丈島で「操舟の達人」「鱸(スズキ)捕りの名人」と謳われるほど、漁業や船の操縦技術に長けた男でした。だからこそ、万次郎が求める高度な造船の注文も、誰より的確に理解できたことでしょう。ボートの製作は極めて順調に進み、3月初旬には見事に完成したといいます(※16)。

中浜万次郎はこの時36歳。半右衛門は26歳。世界を知り尽くした偉大な先駆者と、未知なる可能性を秘めた若き原石。絶海の地で、その二つが奇跡の邂逅を果たした瞬間でした

・・

ここからは歴史のロマンが膨らむ想像ですが、この濃密な2ヶ月の間に、半右衛門はジョン万次郎から数多くの未知の世界を学んだはずです。もとはといえば万次郎も土佐の貧しい漁師の生まれ。話も合ったと思います。異国の生活、捕鯨の技術、アメリカ流の造船術、世界の広さ、そして諸外国と日本の立ち位置――。何より大きかったのは、万次郎が少年時代に143日間もの極限のサバイバルを生き延びた、絶海の無人島「鳥島」の記憶についてです(※18)。

当時、文字の読み書きが全くできなかった(文盲だった)という半右衛門。しかし彼は、世界を見てきた男たちから「見聞きしたこと」のすべてを凄まじい吸収力で自分の肉体へと刻み込み、新時代の幕開け(明治維新)へと突き進んでいくことになるのです。

故 玉置半右衛門
故 玉置半右衛門氏(※1より転載)


   続きは

《八丈島リサーチ②「無人島開拓の偉人」玉置半右衛門②
「わずか9ヶ月で強制撤収した小笠原最初の開拓者30人の顛末記」につづく➡こちら

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【文中出典】

(※1 出典:矢部信太郎 編『近代名士之面影 第1集』大正3年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※2 出典:東京都出版『江戸時代の八丈島 : 孤島苦の究明  (都史紀要 ; 12)』177P 1964年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※3 出典:廣田三郎 著『実業人傑伝 第5巻第2編』明治28-31年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※4 出典:雄山閣 編『類聚伝記大日本史 第十二卷』186P 昭和11年、 国立国会図書館デジタルコレクション  ㊟一次資料未詳。伝記・評伝のため編者の主観や評価は入るが、ベースにあるのは「実際に起きた事実」として評価できると考え引用した。)

(※5 出典:東京都八丈町教育委員会発行『わたしたちの八丈島』117P 令和7年改訂12版、こちらPDF

(※6 出典:葛西重雄 著『八丈島青ケ島碑文墓誌集成』97P 1990年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟一次資料未詳。「石山留五郎に弟子入り」は時代背景から推察したフィクションの可能性もあり。ただし半右衛門が大賀郷の中心部に生まれ育ったことから大工技術を学ぶに留五郎と交わった可能性は高いため、当ブログも一次資料未詳のままエピソードとして取り上げた。「父から3頭の牛を貰い家から独立」はいくつかの伝記にも書かれている。)

(※7 出典:江崎竜雄 編『大東島誌』序 昭和4年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※8 出典:実業之世界社『実業の世界 7(23);十二月一日號』記事32P 1910年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟現在も実在する経済誌『週刊ダイヤモンド』や、実業之日本社のルーツ。ノンフィクションのメディア。雑誌特有のやや誇張・美化あり。筆者も千山九江筆と匿名である。歴史的事実としての信憑性は非常に高いが、ジャーナリズムとしての描写には誇張や主観が含まれていると理解したい。)

(※9 参考:日本経済新聞社、野村ホールディングス『man@bow』お金の歴史雑学コラム、こちら

(※10 出典:海外之日本社出版『海外之日本 1(1)』57P 1911年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟「海外之日本社」は1911年に創刊され1942年まで活動していた出版社。グローバル・地政学的な視点を持ったノンフィクション誌。記事は玉置半右衛門没年1910年の翌年書かれたものであるので親族や生前の関係者、あるいは会社の公式記録から直接情報を得て書かれている可能性が極めて高いが、追悼記事特有の美化・物語化されている面もあると推察する。)

(※11 出典:小笠原村HP『沿革』こちら

(※12 出典:永久保満 著『趣味の東京府八丈島誌』99P100P 昭12年、 国立国会図書館デジタルコレクション ㊟移住者30人は男15名・女15名の夫婦。他資料より、うち純粋な夫婦は11組で残りの4組はそれぞれ5歳から14.5歳の子どもの許婚関係(めあわせ(嫁入り)する)であった。また夫婦といっても妻が13歳という関係もあり(詳細別記事こちら)。資料 坂田諸遠 編纂「小笠原島紀事 31巻首1巻 巻之12」〔明治年間〕、 国立国会図書館デジタルコレクション こちらに半右衛門28歳と記載も有)

(※13 ㊟いくつかの資料によっては半右衛門19歳の時小笠原開拓へ入植と書かれているが、当ブログでは生年と文久2年小笠原開拓という歴史事実に合わせ25歳とした。他28歳とした資料(※12など)もいくつか見かけた。)

(※14 出典:日本現今人名辞典発行所『日本現今人名辞典』「たまおきはんえもん」の項、明治33年、 国立国会図書館デジタルコレクション を参考に他出典資料を考慮しつつ文章化)

(※15 出典:文倉平次郎 著『幕末軍艦咸臨丸』326P 昭13年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※16 出典:中浜東一郎 著『中浜万次郎伝』342P 昭11年、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※17 出典:広田三郎 著『実業人傑伝 第5巻』二ノ九P 明28-31年を現代語訳、 国立国会図書館デジタルコレクション

(※18 出典:南大東村誌編集委員会 編『南大東村誌 改訂』92P 1990年、 国立国会図書館デジタルコレクション  ㊟鳥島の話を万次郎から聞いたというエピソードは南大東島誌に拠る)


【巻末注釈:小笠原で出会った二人の偉人・略歴】
小花作之助(おばな さくのすけ ※のちに作助に改名)小笠原諸島の領有権確立と開拓のため、外国奉行・水野忠徳の一行として咸臨丸で現地へ渡った人物(当時は外国奉行支配定役元締助)。現地の本格的な地誌調査や地図作成を行い、水野の帰府後も島に残留。八丈島からの移民とともに島の管理と開拓を主導した。明治維新後も新政府の官吏となり、「小笠原の再開拓」を求める建白書を何度も提出して島への熱い執念を燃やし続けた。のちに初代「内務省小笠原島出張所長」(現在の支庁長や村長に相当)に任命され、現地での本格的な統治を実現した偉人である。
中浜万次郎(ジョン万次郎)土佐国(高知県)の貧しい漁師の家に生まれ、14歳の時に嵐に遭い、仲間と共に絶海の無人島「鳥島」へ漂流。143日間の過酷なサバイバル生活の後、米国の捕鯨船に救助されて渡米。現地で英語、数学、測量、航海術などを最先端の学問を広く修めた。帰国後は日米和親条約の締結に協力するなど、幕府や新政府の外交に尽力。小笠原開拓では小花作之助らのもとで日本人への開拓指導を行い、近海での捕鯨などを実践して島の産業基盤の礎を築いた。晩年は開成学校(現在の東京大学)の教授などを務め、教育に貢献した。

 

八丈島・青ヶ島のリサーチ

来月の八丈島・青ヶ島の旅(こちら)に向けてリサーチをしています。先月の大東島旅行リサーチ(こちら)に倣ってまずは島の大きさををこれまで旅した離島との比較をしてみます。

【八丈島・青ヶ島の島の大きさ】

島の大きさランキング

八丈島の面積は69.11平方キロメートル。先月行った南大東島の倍以上あります。日本の島として総合 37位(堂々のTOP50入り)、東京都の島としては大島に次いで2位、JR山手線の内側の面積とほぼ同じと言われています。八丈島をぐるりと巡る「八丈一周道路(都道215号線)」は全長約45㎞。レンタカーで観光なしで1時間半。島全体をゆったり一周(+主要スポット観光+温泉+グルメ)するのであれば、2泊3日ほどのスケジュールを確保しておくと、焦らずに島時間を堪能できる。

一方、青ヶ島。面積は北大東島の半分。日本には5k㎡〜10k㎡未満の島(無人島含む)が約50〜60島ほど存在していて、青ヶ島はその激戦区のちょうど真ん中あたりに位置しているそうです(グーグルAI)。外周約9kmの小さな島。レンタカーだとあっという間。ただし、青ヶ島は世界でも珍しい「二重カルデラ」で形成された極端な火山島のため、平坦な道がほぼ存在せず、島を巡るハードルは独特。車である地点まで行ったらあとは歩きとなる。さらに一度島に入ると天候不良で数日間帰れなくなることもあるため、移動時間よりも、「足止めを想定したゆとりのある日程」を確保することが重要、だそうだ。さすが「上陸難易度」が日本一といわれるだけありますね。

こうした背景から今回私の日程は次のようにしました。入島前日夜船(船中泊)で向かい八丈島に入り八丈島泊1泊、翌日から青ヶ島2泊、戻ってきて八丈島2泊、総行程6泊7日。当初の予定では八丈島に2泊してから青ヶ島へと予定していました(こちら)が、足止めリスクを考慮して日程調整ができるよう八丈島2泊を後にしました。(それに伴う宿の取り直しや行きの船・帰りの飛行機の予約もすべて今日やりました)こうしておけば青ヶ島で足止めを食らっても八丈島でやりくりできる、と踏んだからです。最悪帰りの飛行機は予約変更できますしね。

・・

【八丈島・青ヶ島の位置関係の概要】

八丈島・青ヶ島 位置関係

東京から287キロで八丈島、そこから南に約68〜70kmで青ヶ島。八丈島と青ヶ島はほぼ一直線に南に並ぶ島です。

八丈島と青ヶ島の間の「約70km」。車で飛ばせば1時間ちょっとの距離ですが、八丈島と青ヶ島の間には深さ数千メートルの激しい黒潮の海が横たわっているため、距離以上に遠く感じられるのがこの2つの島の特徴です。陸上から見ると、八丈島も青ヶ島もポツンと海に浮かぶ小さな島。だけど海底の地形は全く異なる。実はこの2つの島は、海底にある「伊豆・小笠原海嶺(海底山脈)」の頂上の部分だけが海面から突き出たものです。八丈島と青ヶ島の間に広がる海盆(海底のくぼみ)は、少し島を離れると一気に深くなり、水深1,000m〜2,000m(場所によってはそれ以上)の深海へと垂直に近い角度で落ち込んでいます。

あれ。またデジャブ。これって大東島と同じ?(こちら )。南北大東島間はわずか8kmに1500m級の谷だったけれど、八丈島・青ヶ島間も海底には1000m級2000m級の谷があるってことだよね。つまり直線だと「約70km」だけど、2つの島の間を移動することは、陸上で例えるなら「深さ1,000メートル以上の巨大な谷(グランドキャニオン級)を飛び越えて、隣の山の山頂へ移動する」ような状態だっていうワケです。すげぇ。

・・

【八丈島・青ヶ島へのアクセス】

八丈島・青ヶ島へのアクセス

東京都八丈支庁のホームページ(こちら)より引用

アクセスは上図の通り。って、図で表すと至極簡単ですけれど、八丈島までは船か飛行機で普通に行けるとは思いますが、青ヶ島にはそうやすやすとたどり着けないようです(何度か書いてますが)。なにせ「上陸難易度」が日本一、の青ヶ島ですから。ヘリは1日1便(木曜のみ2便)、船は欠航率50%。なんとも予定が組み辛いこと最強・難関の島です。

と今日の記事はここまで。あとは後日、八丈島・青ヶ島を個別にリサーチします。

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離島の旅の準備・八丈島+青ヶ島旅行へ

7月に大東島に行って旅の終えてこう考えた。
生きているうちに行きたい離島。①礼文島。②硫黄島クルーズ。
そして、新たに追加で③八丈島。(こちら

「八丈島は今年中に行くかも」・・となったら居ても立ってもいられない。もう翌日から計画を練り始めています笑。来年はたぶん6月に②の硫黄島クルーズ、9月に①の礼文と計画すると、年内は八丈島、ただこの9月に行くのはあまりに時間がないので、すると寒くなる前の10月に八丈島、ということになった。

八丈島の計画を始めると、いやがおうにも青ヶ島が目に入る。青ヶ島は大東島にも匹する絶海の孤島だ。これはせっかく八丈島まで行くのであれば立ち寄らなければなるまい、となり、計画は「八丈島・青ヶ島旅行計画」となった。これも無職の特権。平日休日なく旅ができる。

・・

日程は船で八丈島へ渡り(船中泊1)→八丈島2泊→青ヶ島2泊→予備1日で6泊7日で計画。行きの船(竹芝→八丈島・東海汽船)、帰りの飛行機(八丈島→羽田・ANA)は予約した。ANAの航空券は思わぬ事態が発生した時に予約変更できるよう株主優待券を使っての予約。大東島での例があるからね(こちら)。宿泊は八丈島の2泊(+1泊最終日)は予約済。あとは・・、青ヶ島への渡島と宿の手配のみ、とここまできた。

なんだけど、これがね、青ヶ島への渡島手段はヘリか船。できるなら行きは船にしたいけれど・・事前予約ができないんですと。当日の朝7:00に運航状況を確認し、八丈島の港の窓口で直接チケットを購入するんですと。そして就航率がなんと50%とのこと。つまり2日に1度は欠航。ありゃま。
これって、大東島のデジャブですね(こちら )。大東島の時も往復飛行機を予約して前日船が出ることを確認しキャンセルするという力技をしましたが、今回もそうするしかなさそうです。

ではヘリの予約なのですが、これが一か月前で電話予約。わずか9席しかないので毎回物凄い競争率の争奪戦になるそうです。そして・・調べれば調べるほどヘリの予約が取れるのは奇跡的であるらしい。いろいろな方がブログ等で書かれているけれど、ほとんどが9時から電話予約開始で30分・40分かけてやっと繋がったとしても満席でキャンセル待ちになるという。うーん、恐るべし青ヶ島。

さらには青ヶ島の宿は民宿しかなく、宿泊の予約はヘリの予約が取れていることが必須(らしい)。そりゃそうでしょうけれど。来るか来ないか分からん奴の予約を受けるなんてね、ありえないから。

ともかくは予約が取れる前提で島のリサーチを進めてるけれど、さてさて。ヘリの予約は9月中旬。どうなることやら。

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そうだ、プールに行こう~稲毛海浜公園プール~

先だっての海水浴(こちら)のリベンジを図ろうと虎視眈々とお天気の動向をみつめてまいりましたが、なんと台風がきたり豪雨があったり波も天気も芳しくなく、ついに海水浴場の開催期間が終わりつつあります(千葉県内)。もーダメだね。今年の夏の海水浴はあきらめました。来年夏、生きていてその元気があれば海水浴に行くことにしよう。そう決めました。

で、妻より「近所のプールでも行って来たら?」とアドバイスされた。プールかぁ。そう言えばプールも海水浴同様近年行ってなかったな。そう、子どもたちを連れて一日中遊んだプール。流れるプールや波の出るプールなんかもあったな。大勢の人がごったにいて、夏、って感じだった。だけど・・。行くとなれば今の私はひとりだしなぁ。67歳のじじぃがひとりで波のプールに入ってたらおかしくないか?まわりが家族連れだらけなところにポツンとじじぃがいたら浮くんじゃないか?・・と迷いに迷った。

でも。考えればこれは人生のラストチャンスかもしれぬ。思い切ってプールに行くか、と無職の私、平日に稲毛海浜公園プールに行ってきました。

以下写真付き記事。

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間質性肺炎(57)オフェブ→新薬?

久しぶりに間質性肺炎の記事です。

昨日定期健診でした。定期健診というのは私の場合2か月に1度、薬を処方していただくために行くようなものであって、かつ年6回の定期的な受診により、指定難病の医療費助成が「高額かつ長期」となる(こちら)という計算された受診となっています。今回、最近になってまた下痢がひどく続く(こちら)のでその旨を医師に伝えたところ、

私「最近、また下痢がひどくて2時間に一度ペースでトイレに行きます。水のような便がシャーっとでます。ロペミン(下痢止め薬)をのんでも効果が薄いようです。」
医師「オフェブ(肺が硬くなる「線維化」を抑えて呼吸機能の低下を遅らせる医療用医薬品こちら)の量を150mgから100mgに減らすこともできますが・・。」
私「量を減らすと薬の効果は劣りますか」
医師「うーん(言葉を濁して)。下痢の改善にはなるかと」
私「・・どうなんでしょうね」
医師「あと新薬もでています。」
私「新薬?」
医師「下痢は改善されるようです。」
私「・・うーん。(新薬って大丈夫なんだろうか不安)」
医師「量を減らしますか」
私「実は7月に旅行に行って(こちら)、オフェブが余っているんですよね。持ってゆけないので。冷蔵庫入れなきゃならないので。」
医師「どれくらい余ってますか。」
私「2週間分はあるかと。」
医師「では今回はいつも通りの処方で、オフェブだけ2週間分減らしておきますね。状況を見て次回また考えましょう」

という話になりました。次回はまた2か月後。しかし・・「新薬ってなんだ?」
さっそくグーグルで調べると。

「特発性肺線維症や進行性肺線維症の治療薬としては、2026年5月に新薬のPDE4B阻害薬・ネランドミラスト(商品名:ジャスケイド錠)が製造販売承認を取得しました。従来のオフェブ(ニンテダニブ)と比べ、胃腸障害などの副作用を軽減しつつ、肺の線維化を抑える新たな選択肢として期待されています。」(参考記事こちらとかこちら

ん?いいんじゃない?下痢抑えてくれるんなら。さらに

「直射日光と湿気を避けて室温(1~30℃)で保管してください。」(こちら

これ、すごくいいじゃんね。オフェブは冷蔵庫保管で持ち歩き出来ないのが難点だったけど、常温でいいんならいいねいいね。ジャスケイド最強じゃん。ただ・・

「薬価:9mg1錠4,190円 18mg1錠8,363円(1日薬価:16,726円)」

ほぇ~、高い~。オフェブの1錠6000円(こちら)より高い~。でも・・

「現在お持ちの特発性肺線維症の「指定難病受給者証」は、新薬(ジャスケイド)への切り替え後もそのまま使えます。」

ああ、国及び税金や社会保険をお支払いただいている全国の皆さん、すみません、ありがとうございます。一日16726円×365日=年間650万円余り、医療費助成「高額かつ長期」でたった年6万円の自己負担のそのほかを賄ってもらうこと、ほんとすみません。こんな私の命にありがとうございます。しかし・・

【処方に関する重要なルール(14日制限)】
「新薬の14日制限: 厚生労働省のルールにより、発売されてから1年間の間(2027年7月末まで)は、1回につき「14日分」までしか処方できません。
通院頻度: したがって、それまでは最長でも2週間に1回通院して処方を受ける必要があります。」

ええ~。通院回数が4倍(年6回→年24回)に増えてしまうの~。これは!!どうしたものか。無職の私にとってはできないことではないが・・。これは・・よく考えなければならないですよね・・。

・・

帰りに薬局に寄って薬を受け取った際、薬剤師に新薬のことをきいたらまだ在庫はないそうで、「先生(医師)からまだそういうお話しがありません」って言ってたから、もし「新薬!」ってことになったら私が初(当該病院で)ということになりそうです。

さてさて。どうしませう。

 

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※「間質性肺炎」で検索して当ブログに辿り着いてくださった皆様へ。
間質性肺炎に関する記事はカテゴリー『間質性肺炎』(こちら)で一覧できます。
よろしくお願いいたします。


大東島旅行記をやっと全編記事UP

2026年7月3日~13日に旅した大東島旅行記をやっと全編記事UPしました。

以下、10泊11日の旅行記のリンクです。

初日(2026/7/3)大東島旅行記(0)~那覇へ~
二日目(2026/7/4)大東島旅行記(1)~定期船だいとう乗船記①~
三日目①(2026/7/5)大東島旅行記(2)~定期船だいとう乗船記②~
三日目②(2026/7/5)大東島旅行記(3)~7/5北大東島旅行記①~
三日目③(2026/7/5)大東島旅行記(4)~北大東島・沖縄海で泳いだ~
四日目(2026/7/6)大東島旅行記(5)~7/6北大東島旅行記②~
五日目(2026/7/7)大東島旅行記(6)~7/7北大東島→那覇→与那原~
六日目(2026/7/8)大東島旅行記(7)~7/8与那原→本島南部→那覇~
七日目(2026/7/9)大東島旅行記(8)~7/9那覇~南大東島旅行記①~
八日目(2026/7/10)大東島旅行記(9)~7/10南大東島旅行記②~
九日目(2026/7/11)大東島旅行記(10)~7/11南大東島旅行記③~
十日目(2026/7/12)大東島旅行記(11)~7/12南大東→那覇~
十一日目(2026/7/13)大東島旅行記(12)~7/13那覇→帰宅~
        ★★今回の大東島旅行 旅のまとめ★★

・・

メモを見ながら思い出して写真を張り付けて記事を書き上げるのに約1か月以上もかかってしまいました。無職の特権で時間を自由に使ってブログ化しました。有職者であったら小笠原旅行記(こちら)のように年末までかかってしまったかもしれません。(;'∀')
完全なプライベートの記事ですが、大東島旅行を検討している方には少しは役立つことができればうれしいです。

・・

これで次の旅の計画ができます。あと生きているうちに行ってみたい離島は2ヵ所+1。一つは礼文島。もう一つは硫黄島クルーズ。+1は今回の大東島旅行でものすごく興味を持った八丈島(こちら)。八丈島は近いから今年中に行くかも。礼文と硫黄島は来年かな。元気に生きていれば・・。いや、元気で生きていたい。

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