このブログのプロローグの「私について(こちら)」に記しました通り、その昔、私は哲学科の学生でした。学んだことの多くは忘れてしまいましたが、断片的に覚えていることもあります。人生の終わりが近づいてきていろいろと考えることがあり、その「いろいろ」の中にこんなことも思ったりするのです。
「私が死ねば世界も消える」
身辺生前整理の絶対的取り決め(こちら)にはこうした現象学的存在論・独我論的な思考が人生観の背景にあります。「明日で人生が終わると思えば」「今この瞬間に使っていないものはすべて無用」つまりは「私が死ねば世界も消える」のだから。デカルト、メルロ=ポンティ、そしてサルトルといった哲学者たちの思考を受け継いだ先の私なりの究極の死生観です。
「なぜ世界が消えるのか」
デカルトは、肉体と精神は全く別の存在だと考え、肉体が滅びても、精神は魂として残り続ける可能性があると考えた。だが私は「精神が魂として残り続けた」としても肉体がなければ(魂があったとしても)現実的には「無い」ような気がする。メルロ=ポンティの「肉体こそが、私たちが世界を認識する唯一のベースである」という主張に沿う考えです。肉体が消滅してしまえば、いくら魂だけで浮遊していても、肉体なき魂では何も感じられないし何もできない、まさにあって「無い」に等しい状態になるように思う。それはサルトルなどの「実存主義」のニュアンスも強く取り入れて・・私なりの結論に行き着きます。「私」が肉体をコントロールして主体的に生きている(実存している)。しかし、その「私」が消えれば世界も消える。
もちろん、私以外の世界は継続してありますよ。私の人生(物語)など宇宙の歴史、地球の歴史、人類の歴史のなかにあって砂漠の砂一粒にも満たない儚いものです。「私が死ねば世界も消える」の主旨は、私が死ぬこと(私の精神と私の肉体が消滅すること)によって、私が見ている世界(私から見られている世界)=私が登場していた物語の投影されたスクリーンが閉じる(movie is over)=世界が消える、ということです。
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「死の先が完全な無であり、自分の死とともに世界が消える」
であれば、自分がいなくなった後の世界に執着せず、私物の整理(生前整理)を断固として進めることは、自分の人生の物語のエンディングを自分自身の「我(意志)」によって完成させようとする主体的な行動となりますでしょう。「身辺生前整理の絶対的取り決め」はそうした死生観から導き出したものなのです。