TwilightSmile

 ~ 定年 another story ~

流氷見物旅行記(前夜)(私一人でゆく。)

流氷見物は2年越しの思いがこもっています。計画自体は2020年に遡ります。2020年はコロナが発生した年。いち早く北海道が緊張が高まり旅行どころの騒ぎじゃありませんでした(こちら)。
で、去年。ギリギリまで待ったけれど緊急事態宣言が解除されず断念(こちら)。

今年こそは。と早めに計画し、旅行期間は2/11~2/14、2月の3連休にもう一日休みを取って3泊4日で流氷を見てくるというスケジュールをたてました。もちろん妻と二人で行く旅行です。滅多に見ることはできない流氷、妻にも見せてあげたいですもの。

昨年9月末。まずはなにより足。つまり飛行機の予約です。行先は北海道。飛行機の予約が取れなくては行きたくても行けません。ましては3連休。早めに予約しなければすぐに埋まってしまいます。まず飛行機予約をし、次に宿を取り、点を結ぶように移動手段を検討し、流氷船の時刻を調べ予約開始時に一番で予約し、と一歩ずつ、綿密にスケジュールを組んでゆきました。そして、昨年末にはあとは旅行決行を待つだけ、という状況になっていました。

ところが・・。
今年になってもコロナ収束の見通しは立たず、まん延防止なんちゃらで世の自粛ムードは一向におさまらない。妻とは緊急事態宣言がでたなら旅行中止も止む無し、と話してはいました。しかし2月に入っても報道されるのは深刻なNEWSばかり。かと言って緊急事態宣言はでない。だんだんと旅行決行日が近づく。・・緊急事態宣言がでないならば決行しかあるまい。とそう私は決めていました。

しかし。妻は違いました。こんな自粛ムードの中旅行をして万が一にもコロナに感染してしまったら・・、職場で何と言われるか分からない。そう考えると楽しんで旅行に行けないと。大いに悩んで私に打ち明けました。
以前どこかの記事で書きましたが妻は教育関連の施設でパート勤務しています。世の中が自粛しているさなかに旅行をして、コロナにかかってしまったらという恐怖はそうとうの心の負担になっていたことでしょう。その妻の心の痛みは分かる。分かる、けどね。。

緊急事態宣言が出ない以上、旅行が禁じられているわけではないし、各交通機関も宿も流氷船も営業しているワケで、そういった業種で働いている人たちは旅行者が過度に自粛することによって経済的に深刻な状況の追いやられる。ウィズコロナの時代に入った今、無責任なマスコミの不安をあおる報道に洗脳され旅行を取りやめるなんていう選択肢は私にはない。まして緊急事態宣言が出ない以上、旅行を取りやめることによる損失(キャンセル料)はすでに100%取られてしまうわけだし。

いよいよ来週旅行だねっていう1週間前の土曜日。妻は旅行に行かないと。
ずっと楽しみにしていたけれど、このまま心の負担をかかえて出かけて行ってもきっと楽しむことはできない。ごめんなさい。自分は行けない。と。

大ショックでした・・。ちょくちょく妻とは旅行に出かけてはいましたが、コロナもあって久しぶりの長期の遠出、妻と二人で3泊4日北海道、です。そうです、私にとっては「妻と二人で」というところに今回重点を置いて旅行計画をしていました。その妻が今回行かないと。目の前が真っ暗になりました。なんとか考え直してもらおうと説得を試みましたが、、無理に連れて行っても楽しめない気持ちを楽しますことは不可能です。翌朝には妻の説得は諦めました。そして。

いまさらキャンセルもできないし、私にとっては3年越しの流氷への思いもあります。気持ちを整理してキッパリと決断をしました。

私一人でゆく。

・・

2022年2月10日。

流氷見物旅行の前日。関東地方は大雪に見舞われました。都内でも積雪。つまりは羽田も・・。もしかしたら明日朝の交通機関も動かないかもしれない!!気が気じゃありませんでした。どうしようか、どうする??

ということで急遽羽田近郊のホテルに前泊することに。前日多くの人が同じような行動をしていて、やっとのことで取れたホテルは羽田インというホテル。京浜急行の大鳥居駅から徒歩3分という立地。ここ予約した一番の理由は空港までの無料送迎バスがあること。大雪の中、電車・バスを乗り継いで朝早く向かうより、心の余裕度が断然違います。

17時に仕事を終え一目散に帰宅。急いで準備をし家をでたのが20時過ぎ。駅まで妻に送ってもらいました。雪で電車が止まらぬことを願いつつ、1時間半くらいかけて大鳥居駅に着きました。駅舎をでると、あれ?それほど積もっていない。よかった、これならキャリーを引いてホテルまで何とか歩いて行けるっ。とガラガラキャリーをひき無事ホテルテックイン。11㎡と狭い部屋ですが寝るだけです、文句はありません。ベッドにごろんと寝ころびTVをつける。

羽田 前泊

「明日から3連休。東京都心でも積雪。明日日中回復する予想。」

なんとか旅立ちできそうだ。今夜はこのまま眠りにつく。

 

5年は生きたい=5年は生きられる、と勘違いせぬように

「(人間は)禽獣草木魚介の族と同じく死ぬるものである」(倉田百三)(こちら
命があるものは全てのものが死ぬる。それは誰もが分かっている。だが誰がいつ死ぬかは誰も分かっちゃいない。命あるものは全ていつ自分が死ぬか分からずに生きているのだ。命あるものはこの世に生命を受け生きていつか死ぬ。その運命はみな等しく同じだ。違いは個々の生きる期間が短いか長いかだけである。

先だって父母の死と私の寿命の相関関係(こちら)を書いた、その中で68歳まで私が生きたとしたら、平均寿命から17年早い父と11年早い母のぴたり中間の14年となり、もっともらしい奇妙な相関関係を見出したのであるけれど、そのことをよく見直してみれば、仮に今年(63歳)で私が死んだとしたら平均寿命より19年も早死にすることも有り得ることであり、そうなったら私は父母よりもぐっと短命な人生であったことになってしまうことも見い出せるのである(あくまで平均寿命から逆算した余命ということだが)。

命あるものはいつ死ぬか分からないのだから早く死んだら早く死んだで結果的にそうなっただけのこと、ではある。だが明らかな事実として私は命あるもののうち確率的には死ぬる確率が高まっている年代に入っているし、また間質性肺炎という爆弾を抱えていることからして、他者よりその時は近い、という可能性が高い。なのであと5年はしっかりと生きたい(こちら)、とそう願う私は危機感をもって生きなければなりません。私は今後5年は生きたいと思うがしかし5年生きることができるかどうかは約束されておらず、その時は明日かもしれぬと気を引き締めて、覚悟や準備をしっかりとしておかねばならない、と自分に強く言い聞かせようとしているのです。でないと、5年は生きたい=5年は生きられる、と勘違いしてしまいそうな私なので。

・・

そんなことを書きながら、少し調子のいい話だが、もし希望通り5年間生きられたらその先私はどうなるのか、という問題も頭の中に沸々と湧いてくる。5年間生きながらえて、5年間何事もなく勤め上げて、2回目の一丁上がり、ってなってリタイアするのだろうか。私は、もう終わった人間として隠者となり、いつ天命が尽きてもそれでよいと言える私となっているのだろうか。5年後は68歳。その時すでに私は身辺生前整理は終えており、いつ帰らぬ世界へ旅だとうともこの世に未練はないという状態にあるのだろうか。

分からぬ。分からぬけれど、生きたい、と思う気持ちが継続していれば、その先も生きたい、いや、その先にも行ってみたい。朧気だけれど、その先に何か見えるならばそれを見てみたい。答えは5年後。(かなぁ)

言えることは、還暦原点時に書いた(こちら)ように、妻への思いによる。
「(妻が私亡き)後で寂しく思い起こすのならば、できるだけ長く、妻には小さな日常の幸せを感じてもらえるように私は生きていたい。できるだけ長く、元気に生きていたい。」
そして。「私がいない世界でぽつんと年を重ねてゆく妻を思うととても切ない。まるで『振り子』を見ているようで・・。」(こちら

だから。5年後もたぶん。(妻から愛想をつかされぬ限りは(;'∀'))

・・

近況忘備録。

①北京オリンピック、始まりましたね。新疆ウイグル自治区、香港、台湾、南シナ海、そして尖閣の領海侵犯、と受け入れがたい問題を起こしている国でのオリンピック開催には正直手放しで賛同する気にはなれません。ただ、東京オリンピックの時もそうでしたが、アスリートたちに何の罪もありませんし、北京の市民が悪事をしているわけではありません。開会式で一生懸命歌ったり踊ったりしてもてなしてくださる姿を見て、純粋に感動しましたし、これから始まる競技を純粋に応援したいと思っています。

②石原慎太郎さんがお亡くなりになりました。お悔やみ申し上げます。今思えば尖閣諸島(こちら)をあのまま都が買い上げていたら、もう少し領海侵犯を繰り返す国に強い態度で臨めていたのではと悔やまれてなりません。昭和7年生まれというと私の亡父と2歳しか違わない方だったのですね。小説では青年の樹が好きでした。(本棚探したらあった、今度40年ぶりかで読み直してみよう)
ところで共産党の志位さん、「立場の違いへの言及控える」と大人の対応には敬服いたしました。立場の違いはあっても敬意やご遺族への配慮はさすがと感じた。共産党は絶対に支持できないけれど志位さんは人としてできている方だなと思いました。一方、立憲の方々は相変わらず。自分たちが正しく意見を違う人は間違っていると徹底的に叩く。そのくせ自分たちの間違いは自己批判せず棚上げ。これじゃ国民の支持を得られるわけないよな。

③オミクロンウイルスまん延中。敢えてオミクロンウイルスと書くのは地元の商店街でそう書かれた張り紙や注意書きを見かけたから。言い得て妙、とはこのこと。もうね、コロナとは違うウイルスって印象が大ですよね。コロナと同じような対策、まん延防止なんちゃらとかいらないと思う。罹る人は罹る。インフルエンザと同じ。感染症対策をして自衛あるのみ。

④さていよいよ来週は流氷見に北海道へ行ってきます。どうやら緊急事態なんちゃらはでそうにありませんし。やっと1年越し(こちら)の計画が成就しそうです。(あっと2年前からの計画だった(こちら)(^^♪)

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間質性肺炎⑰(胃カメラ結果と人間ドッグ結果)

まず、胃カメラ(内視鏡検査ね)の結果から。
一言で言って、大山鳴動して鼠一匹もです、でした。
あんなに(こちら)大騒ぎ(?)していたのに。(-_-;)

時系列を書いておくと、1/20医師のこの一言(こちら)で胃カメラを飲むことになって、私の両親ががんで亡くなっていることもあって大いに不安になっていた。
で、昨日(2/3)、ちゃっちゃと検査が終わり(15分くらい?)、ずずーっとカメラの管が抜かれてすぐに、検査して下さった人(技師?医師?)が「特に悪いところはなかったですね~」と一言。私「あ、はい、ありがとうございます!」と。周りの人たちにも「ありがとうございまいた!」と深々とお礼を言って。
うひょー、なーんだ、なんでもなかったんだ、とこみ上げる喜びに包まれて、私。まさに、ずんずんずんずんずんずん、コマツのオヤブンサン!状態の私でした。(小松政夫さん、懐かしいです)
(正式な所見は次の経過観察の時に聞くので、ぬか喜びは禁物ですが(・・))

けど、だったらあの胃の痛み(こちらこちら)は何だったのかしらん。
やっぱりオフェブの副作用?

ちなみに胃カメラの費用は保険適用で3000円くらいでした。

・・

そして今日。1/21日に受けた人間ドックの結果が届きました。

2022人間ドック結果

①の間質性肺炎の所見は、前回(こちら)と変わらず、まあ、そうなんだけど。
②の慢性胃炎(疑)って?もしかしてあの胃の痛みの原因なのかな。
③の高血圧うんぬんは生まれて初めての所見。

ふ~ん。(て感じです)

ま、ともかく今日からタケキャブ錠飲み始めたので、胃痛がなくなればいいな。
(ていうか、ここのところ痛むことないんだけどね汗)

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※「間質性肺炎」で検索して当ブログに辿り着いてくださった皆様へ。
間質性肺炎に関する記事はカテゴリー『間質性肺炎』(こちら)で一覧できます。
よろしくお願いいたします。


父母の死と私の寿命の相関関係

私の父は59歳、母は76歳で亡くなりました。
死因は父は食道がん、母は胃がんです。
亡くなった当時の平均寿命からすると二人とも早死と言えるでしょう。

混交吸い

(図表:1/27日(こちら)の表再掲)


父は1991年に亡くなったので、上図からその当時の男の平均寿命は約76歳。
ということは父はおよそ平均より17年早く没している。
母が亡くなったのは2013年。その当時の女の平均寿命は大体87歳。
ということは母はおよそ平均より11歳早くこの世を去っている。
つまり、私の家系的には寿命の平均より早死にすることを彷彿させる。

2027年、男の平均寿命は82歳くらい。
私が68歳で死ぬるとすれば、平均より14年早いだけなのだ。
その14年というのは17年早い父と11年早い母のぴったり中間なのである。
なんとももっともらしい奇妙な相関関係。

私はあと5年は生きたいと思った(こちら)。
その2027年まであと5年、なのだ。
(くぅ~、何とも言えない現実味)

・・

さて。
「父も母も「がん」で死んだ」のだが。
そのことが今たいへん気がかりとなっている。

何故ならば、これである(こちら)。
「胃の痛みは逆流性食道炎か胃がんか分からないので、胃カメラ飲んでみます?」

胃カメラ飲んで、もし、もし、がんが見つかってしまったら。
まさかね、まさかね。
でも、不安が募る。

そもそも胃が痛いっていうのはオフェブの副作用かと思って言ったこと。
その副作用、体が慣れっちゃったのか、ここのところ痛むことは全くないのだ。
下痢もほとんどなくてコントロールできている。

なのになぁ、なのに胃カメラ飲むなんて言わなきゃよかった。


そしてその胃カメラ。
明日なんだな、これが!あ~

 

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遺された妻はそこから30年間どうやって生活していくのか。

前回(こちら「私亡き後妻が30年生きる問題」)の続きです。

私が5年後にこの世を去った後の妻を切なく思い、おセンチになって寂しく憂うような非建設的な話はさておいて、この世に残った妻のために何よりも真っ先に考えておかなければならないことがある。それは「遺された妻はそこから30年間どうやって生活していくのか。」という経済的な問題である。その先30年妻が経済的に困窮して不自由な生活を過ごすことになって路頭に迷ってしまったら、それこそ不憫で不憫で、不憫でならない。妻が安心して余生を送ってもらえるよう、私はしっかりと考えておかなければならない。でなければ安穏として末期を迎えられない。

・・

5年後私は68歳で死亡。妻は60歳。
今のところ健康な妻は65歳までは元気に今のパートを続けられるだろう。
その間はパート収入と私の遺族厚生年金と中高齢寡婦加算(585,700円)もあって、まあ困ることなく生活を送れるだろう。(まあ、ここまではいいだろう)

しかし、その先は?
その先はいつか妻もリタイアして年金だけの生活が待っている。仮に妻が65歳でリタイアしたとしたら90歳まで生きると25年間。年金だけでは生活が厳しくなるのは現在の年金制度からして明白だ。
妻の年金収入は本人の老齢基礎年金と私の遺族厚生年金(私の厚生年金の報酬比例部分の3/4)である。それで足りるのか。否。足りることはないだろう。ではいったいいくら預貯金があったら妻の生活は改善され不自由なく寿命を全うできるのか。

・・

その検証をするために、令和2年度版の高齢社会白書(こちら)の高齢化の推移と将来推計の図表に妻の90歳までの年齢を書きこんでみた。すると、ふたつの大きなポイントが浮かび上がってきた。

高齢化率と将来推計

1)一つは右上の赤☆の部分。
 妻が80歳を超える頃(2050年~2060年)、日本の人口は1億人を切っている。
2)もう一つは左下の緑☆の部分。
 妻が75歳以降90歳までの間(2045年~2060年)、65歳以上の人たちを支える現役世代の人(15歳~64歳)たちの割合が1.4人になってしまっている。

つまり妻が75歳から80歳になる頃、日本の総人口は1億人を切り、現役世代(15歳から64歳)は1.4人で1人の高齢者を支えている、言い換えれば1人の高齢者は1.4人の現役世代に支えられている、そんな時代に妻はひとり老いてゆくのである。
(ちなみに2020年(一昨年)を見ると総人口は12532万人で、65歳以上を人たちを支える現役世代の人たちの割合が2人である。)

ということは。
このまま、今のままの年金制度を続けられるはずはなく、確実に段階的に年金支給の年代は繰り下がっていくだろうし、年金支給額も今の7掛けくらいになるのではないのか。(今二人で一人を支えているのが、1.4人で一人となるのだから、=7掛け←根拠のないざっくりとした数字ですけど)

・・

では、次。支出はどう見通しておこう。高齢の独居老人の女性の生活費はいかほどなんだろうか。私の妻はたいへん倹約家なので、標準で見積もっておけばおつりが出るだろうと踏む。ということでこちらの資料を参考にしよう。平均的な家計計算を見込んでおけばなんとかなるんじゃないか?

総務省統計局の家計調査年報(家計収支編)2020年(令和2年)家計の概要(こちら)によれば、65歳以上の単身無職世帯(高齢単身無職世帯)の消費支出(こちら)は133,146円、非消費支出(こちら )は11,541円である。支出計は144,687円である。

出典:家計調査年報(家計収支編)2020年P18(こちら

ということは。
妻の65歳からの必要なお金はざっくり14.5万円/月(消費支出+非消費支出)くらいだろうか。ま、余裕みて15万/月とする。(たいした余裕じゃないけど汗)

・・

1/21に厚生労働省からPress Releaseが出された(⇒のPDF:出典は厚生労働省(こちら))。今年2022年度の年金受給額は前年に対し04%値下げになるとのこと。つまりは今年を100としてここから毎年0.4%づつ年金額が下がるとしたら、今から35年後はいくら下がっているのか、を求めたい。
まあ単純に前年の結果にー0.4%づつかけていけばいいだけなのだけどね、で、EXCELでちゃちゃっと計算しまして、答えは・・86.9%となりました。

年金掛け率(

えーと、ま、私が死んでから30年、というより、いや妻が65歳でリタイアしてから90歳までの25年間の収入の部は、年金額の今の水準に86.9%掛けたぐらいを通期で見積もっておけば、まず少なすぎることも多すぎることもないだろう、ということとしておこう。(←乱暴だけど)

・・・

では以上の論点を整理して私亡き後の妻の家計を見ておこう。
前提条件は、
(1)妻が必要とする生活資金を15万円/月とする。
(2)年金は170万円/年(遺族年金+基礎年金)とする。
(3)年金は税金や社会保険料を差し引き(ざっくり10%)手取りをだす。
で、計算をしてみる。

■Aパターン■
ざっくり妻の年金収入が170万(遺族年金+基礎年金)とした場合。
税金や社会保険料を差し引いて(ざっくり10%)手取りは、153万円(月12.75万円)。
必要額15万円-12.75万円⇒月2.25万円のマイナス。年で27万円マイナス。
27万円×25年=675万円不足する計算。
⇒預貯金1000万円あれば、これならなんとかやっていけそう。

■Bパターン■
仮に。
今年(2022年)年金が0.4%引き下げられたので、これを元にして計算してみる。
Excelでちょこちょこっと掛け率を計算してみると妻90歳の時で今の86.9%となる。
まあ、ざっくり85%としてみると。
(面倒なので一気に85%掛けで初年度から計算すると)
170万/年×0.85=144.5万/年 144.5万×0.9=130.05万÷12=10.8375万円/月
必要額15万円-10.8375万円⇒月4.1625万円のマイナス。年で49.95万円のマイナス。
49.95万円×25年=1248.75万円必要。
⇒預貯金1500万円あれば、ぜんぜんやっていけるね、たぶん。

■Cパターン■
仮に仮に。
将来年金額が今の7掛けぐらいになることを前提に計算する場合。
(これも面倒なので一気に7掛けで初年度から計算すると)
170万/年×0.7=119万/年 119万×0.9=107.1万÷12=8.925万円/月
必要額15万円-8.925万円⇒月6.075万円のマイナス。年で72.9万円のマイナス。
72.9万円×25年=1822.5万円必要。
⇒預貯金2000万円あれば、まあなんとかやっていけるか。


・・

以上の結果から「私亡き後妻が30年生きる経済的問題」の解決策が導き出された。

①妻が65歳まで今の仕事を続ける。
 遺族厚生年金と中高齢寡婦加算もあって、まあやっていける。

②妻が65歳でリタイアした後、年金と2000万円の預貯金で暮らす。

ということで、私が妻に2000万円遺せば何の憂いもないとのこと。
我が家の2000万円問題は解決。

よかったよかった。(のか大汗(・_・;))

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私亡き後妻が30年生きる問題

人生100年時代とは今の子どもたちが大人になってその先平均寿命が100歳となる見通しであって、今の中高年の平均寿命が100歳になるわけではない。令和2年の高齢化白書(こちら:下図出典元)によれば47年後、2065年の将来推計の平均寿命は男性84.95年、女性91.35年であり、例えば今の50歳(男)はせいぜいあと34年生きて84歳くらいが平均的な寿命なのである。

平均寿命の推移と将来推計(R2年度)

そのことをわが身に当てはめてみると、1959年生まれの自分が84歳に到達するのは2043年。上掲の図でそれに近いところを見ると2040年の平均寿命(男)は83.27歳。当てはめれば今年63歳になる私は平均的にはあと20年ほどの命ということになる。(このようなことはこれまで何度も何度も書いてきた(こちらなど)ことですが)

この20年後の83歳という推計年齢はあくまでも平均なのであるから、当然短い者もいるだろうし長い者もいるだろう。となるとではいったい何歳で亡くなる人が多いのか、という疑問が生まれてくる。で、ググってみたら分かりやすい図表がでてきた。

何歳で死ぬ人が最も多いか
(出典:社会実情データ図録制作こちら


この図表によると亡くなる人のピーク時は男85歳、女91歳であるが、その先は一気に落ち込んでいることが分かる。これはつまり平均寿命は富士山みたいに山のど真ん中の頂上にピークがあるわけではなく、人は山を登りながら徐々に死んでゆき、平均を超え高いピークに辿り着くと、その先は崖をくだるように一気に少なくなるということを表している。

私が注目したのはこの表が65歳から始まっていて、70歳くらいでぴょーんと山が高くなっているところである。私の世代のちょっと先輩たち、団塊の世代の方々が今いる辺りだ。この辺りでくたびれて亡くなってしまう方も多くいるということも見て取れる。

私はあと5年はしっかりと生きたい、と目標を立てた(こちら)。しかし、一方で私の中で20年の余命に対し5年とはいささか短いのではあるまいか、との疑いが浮かんでいた。だがこの図表を見る限り、5年という余命を覚悟して目標とすることはけっして短すぎることではなさそうだ。備えはしておいたからといって間違いではない、という結論に私は至るのである。

・・

しかし、ここで大きな問題に私は気付く。
それは私がこの先5年は生きその先はないとした場合、妻はその先どうなるのか、という問題である。

5年後私は68歳。妻は60歳である。
1967年生まれの妻がこの先の30年後、2050年あたりの平均寿命(90歳)を全うするとしたら。私亡きあと30年は生きることになる。
これは大問題である。

以前に考えていた見通しとは転機(こちら)があって状況が大きく変わってきている。約1年前に私は「私が83歳で亡くなった時妻は75歳、そこから妻は15年独りで生きなければならない。」(こちら)と、私も平均寿命を全うする前提で考えていた。
今の見通しは私亡き後30年、15年と30年とでは倍も違うのだ。

40年近く共に過ごしてきた伴侶を亡くし、その先の30年。
ひとりで30年は長く寂しい。
人生90年としての1/3をにあたる年月を独り老いてゆく妻。

私がいない世界でぽつんと年を重ねてゆく妻を思うととても切ない。
まるで『振り子』を見ているようで・・。


www.youtube.com

・・

うーん。

それとも。
私がいなくなったら妻は、せいせいした、とでもおもうかしらん。

それは・・。
それで、寂しことである。

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『私のもう一つの物語』の中間報告(これまでのあらすじ)

2018年の年末に始まった『私のもう一つの物語』(こちら)。
振り返れば定年前に考えていた第一の進路は「起業」であった(こちら)。60歳定年にして一旗揚げる。意気揚々と船出する、と考えていた。ところが定年後大海に繰り出した舟は流浪の中を彷徨い(こちら)やがて新型コロナという大波に飲み込まれてしまいました。「起業」か「就職」かと揺れ動いた後、投げ出された賽の目は「就職」と出て(こちら)、舟は1年かけて見知らぬ町に流れ着き、私はそこで職を得た。

新しい職場での生活は見るものも聞くものも新鮮だった(こちら)。
そして何年か安穏と過ぎるのだ、と思いきや思わぬ転機が訪れる(こちら)。
いまやこの物語、病気ブログと化しそうだ。

今私はあと5年は生きたいという目標を持つに至っている(こちら)。
その結果この先5年のうちに私はもう一度転職をする必要がある(こちら)。
さらにその5年を全うしたとして、その先はどの方向へ進むのかまったくもって見当もつかない。

・・

このように定年前後からの丸3年、私の漕ぎ出した舟は私の思う方向に進むことはなかった。その時々によかれと思う方向に舵を切るのだが、思わぬうねりや波が私の進路を阻み変えて、思ってもみなかったところに舟は進んだ。

だがこれでよいのだ。
行雲流水。
自然の成り行きに任せて流れ、流れ着いた先が目的地、なのだ。

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